呼吸のように・・・

俳句のエッセー

解説「ミサの鐘」2

緑さす石の十字架粗削り

 「高山右近墓所」と彫られた石の十字架は、それほど大きくはありません。せいぜい50㎝程度だったように思います。これは、ここに右近の墓があると主張するために誰かが建てたものだそうで、本当のところ、右近の墓なのか、遺骨が納められているのかどうかさえ不明のようです。新緑の日ざしが石の十字架を照らしています。白っぽい粗削りの石の十字架でした。ついに、墓所へ来たと思いました。

 

露涼し福者の墓は苔むして

 ここでは「福者」としました。変化をつけるためです。石の十字架の隣に、丸い石が墓標として置かれていました。ドッチボールほどの、歪んだただの石です。夏の露を置いて、右近の墓は苔むしていました。過ぎ去った時の長さを思いました。

 

石一塊墓標としたり五月闇

 同じく右近の墓碑である石の写生です。石の十字架の方が、右近の墓碑にはふさわしいだろうに、しかし、そうではありませんでした。ただの自然石を置いただけの右近の墓の素朴さに、「殉教」という言葉を思い浮かべていました。これこそが「福者」たるものの意味だと思いました。それは、生易しいものではありません。事実とはこのようなものだと知りました。季語は「五月闇」を置きました。配流にて死に至った生きざまと、現在の栄光が、表裏一体、光と影のように感じられたからです。

 

ほととぎす鳴いて祈りの十指解く

 目を瞑ると何かがやってくるようで、実は恐ろしかったのです。薄暗がりの木下の闇に屈むと、地面の湿気が身に移ります。やけに近くで鳥たちが鳴き、しかも人に臆することなく、また鳴きます。ほととぎすの声にはっとして目を開いたのでした。

 右近の墓へ、裏山を登って来たのですが、思わずふり返って「帰れるかな」と心配したほど距離がありました。土留が施された階は、どなたか丁寧に草を刈って、手入れがされていました。ですから、危険だとかという空間ではなかったですし、一本道で迷うこともなかったわけですが、一人で出かけましたので、何かあったら私はどうなるのだろうと、ふと不安になりました。この世のものではない「何か」が出て来そうですし、この世のものでも、決して遭いたくない何かが出て来そうな場所でした。道が途切れ、墓地へは道しるべがありました。その通りに右へ入ると、墓が何基かある、そこは普通の墓地でした。ここが墓地だったから右近の骨が埋葬されたのか、あるいは、右近の墓があったから墓地となったのかは分かりません。

 墓地をはなれて、先ほど来た小径へ出た時、紫陽花が二株あり、花は見頃でした。一つは白、一つは、紺色の額紫陽花でした。木洩れ日に水蒸気が巡っているのが幻想的でした。

 

つづく