私たちの心は、行ったり来たりの連続です。
主を信じていても、ふとわからなくなり、信じられなくなります。
疑う思いがはっきりとしなくても、
本当だろうか、という思いは、
ふと、心のどこかに、湧きあがってくるのではないでしょうか。
幾つになっても、信仰が長くても、
復活の主を信じ切れず、トマスのように言うのです。
「その手に釘の痕を見、釘痕に手を入れてみなければ、決して信じない」
それは、自分に救いが訪れていないという叫びではないでしょうか。
目で見て、この手に触れてみなければ、決して信じない。
そして、その機会は訪れていないのです。
何度も、何度も問うのです。
私の救いはどこにあるのですか?
目に見えない魂の救いは、本当なのでしょうか?
たとえ、そうであったとしても、
今、この苦しみを生きる私に、何の意味があるでしょうか?
主は、あやふやな私を支え、優しく包んでくださいます。
「信じなさい」と叱るのではなく、
「信じる者になりなさい」と言って、
私を、釘の痕の残る両手で抱きかかえて下さるのです。
「見よ、手に触れよ」
それは精神論ではなく、現実でした。
見なさい、見なさい、私は目の前にいるではないか…
そう、私の目の前に主イエスはいらっしゃいました。
御言葉を語る唇、人の痛みに寄り添う心、あなたを守るための行動、
あしなえに差し伸べる手、子供たちへの温かな微笑み…
人の姿をとって、主はまどろむことなく働いておられました。
私の中にも、主は住んでおられます。
目で見て、手に触れる証し人として歩ませてくださいますように、
また、目の前の主を発見し続けることができますように、
祈りをお捧げいたします。