呼吸のように・・・

俳句のエッセー

信じる者になりなさい

私たちの心は、行ったり来たりの連続です。
主を信じていても、ふとわからなくなり、信じられなくなります。
疑う思いがはっきりとしなくても、
本当だろうか、という思いは、
ふと、心のどこかに、湧きあがってくるのではないでしょうか。
幾つになっても、信仰が長くても、
復活の主を信じ切れず、トマスのように言うのです。
「その手に釘の痕を見、釘痕に手を入れてみなければ、決して信じない」

それは、自分に救いが訪れていないという叫びではないでしょうか。
目で見て、この手に触れてみなければ、決して信じない。
そして、その機会は訪れていないのです。

何度も、何度も問うのです。
私の救いはどこにあるのですか?
目に見えない魂の救いは、本当なのでしょうか?
たとえ、そうであったとしても、
今、この苦しみを生きる私に、何の意味があるでしょうか?

主は、あやふやな私を支え、優しく包んでくださいます。
「信じなさい」と叱るのではなく、
「信じる者になりなさい」と言って、
私を、釘の痕の残る両手で抱きかかえて下さるのです。

「見よ、手に触れよ」
それは精神論ではなく、現実でした。
見なさい、見なさい、私は目の前にいるではないか…
そう、私の目の前に主イエスはいらっしゃいました。
御言葉を語る唇、人の痛みに寄り添う心、あなたを守るための行動、
あしなえに差し伸べる手、子供たちへの温かな微笑み…
人の姿をとって、主はまどろむことなく働いておられました。

私の中にも、主は住んでおられます。
目で見て、手に触れる証し人として歩ませてくださいますように、
また、目の前の主を発見し続けることができますように、
祈りをお捧げいたします。