金銀の紙ほどの幸クリスマス 沢木 欣一
社会性俳句を打ち立てた沢木欣一は、
この俳句において、クリスマスを嘲っているのでしょうか。
欣一が詠んだのは、貧しく、食べる物も十分でなかった時代。
「クリスマスが来たと耶蘇は喜んでるが、生活は相変わらずだ。
まるで、この金紙や銀紙のように薄っぺらな「幸」でしかない」
そういっているのでしょうか。
そうかもしれません。今でもそうです。
クリスマスがやって来ても、むしろ自分の孤独を深め、
欲しいものは手に入らず、待ち人は来ない。
それがクリスマスの喜びだと言うのでしょうか。
しかし、聖書は語ります。
ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていたのである。彼はペトロとヨハネが境内に入ろうとするのを見て、施しを乞うた。ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。その男が何かもらえると思って二人を見つめていると、ペトロは言った。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
男はたちまち足が強くなり、躍り上がって神を賛美しました。
神様の「幸」とは、私たちと次元が違うようです。
しかし、この男の足が強くなった奇跡を「幸」と言っているのではありません。
肉体は、いつかは衰えます。
高価な洋服や宝飾品も、いつかは古びて、朽ちて、失われてしまうでしょう。
お金で手に入れた物は、儚いものです。
お金で手に入れた人間関係は、お金と共に失われるでしょう。
人の心は、お金では買えません。
本当に大切なものは、お金では買えないものばかりです。
わたしには金や銀はないが、あるものをあげよう。
イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。
イエス・キリストの名によって、私たちは生きます。
この世では、紙切れ一枚ほどの幸でしかなさそうですが、
実は、永遠の命と、罪の赦しとが与えられる、
全き救いの出来事、それがクリスマスに起こりました。
救い主が誕生したのです。
わたしたちは、それよりもお金が欲しいかもしれません。
美味しいものを食べて、贅沢を望むかもしれません。
ですが、それらは全て、過ぎ去っていくだけのはかないものにすぎません。
イエス・キリストの名が与えられたクリスマスは、
金や銀にまさるものです。
わたしたちは、貧しくても、明日が知れなくても、喜びます。
なぜなら、そこにこそイエス・キリストの姿があるからです。
救いは、施しでは与えられません。
救いは、貧しい姿の神が行った、命を投げ出すと言う愛の行動によって、
成し遂げられるのです。
救いは、お金では買えません。
尊き貧しさを知る私たちは、
「金銀の紙ほどの幸」の価値を知って、
クリスマスの夜、大いに喜ぶのです。
神の愛の象徴とも読める一句だと言えるかもしれません。