呼吸のように・・・

俳句のエッセー

食べるものはあるか

道が閉ざされたとき、しばしば復活のイエスに出会う前の弟子たちを思い、慰めを得ます。どれだけ絶望したか、そう思うと、心が震えます。
すべてを捨てて従って来ました。ただ、主に従って来ました。しかし、主は死んでしまわれました。未来を、思い描いてきたすべてのみならず、人びとの信用も、生活の安全も、何もかも失ってしまいました。
昨夜までいらした主は、もういません。過ぎ越しのご馳走、足を洗ってくださった主は、仲間の裏切りで亡くなりました。事実を理解できなかったはずです。
しかし、主は復活され、尋ねられます。
何か食べるものはあるか。
暗やみに漁に出た弟子たちは、生きる糧を得るために舟に乗りました。皆が漁に長けていたわけではありません。どうしていいか分からず、生きなければならず、闇に網を打ち続けたのではなかったでしょうか。
しかし、不漁であり、主は疲れ果てた弟子たちに言われました。
何か食べるものはあるか。
ありません。命を維持するための何もありませんでした。
主は、網を右に打つように言われました。すると奇跡が起こります。取りきれない程の魚。主は生きておられました。主の言葉は、奇跡を生んだのです。
途方に暮れ、絶望のさなかにある彼らに希望が生まれました。
いえ、希望はありましたが、知らなかったのです。
エスは希望です。
主は生きて働いておられます。
聞き従う心を求めておられます。
変えられた弟子たちは、多くが殉教の死を遂げました。強い信仰者として、証をしました。
絶望に言葉を下さる主は、私が知らなくても側におられます。
聞き従う人生を選びたいと願います。