呼吸のように・・・

俳句のエッセー

イエス・キリストの弟子

さて、洗礼を受けた私たちは、

イエス・キリストに従う者、イエスの弟子です。

では、これから記す言葉ですが、

エスの言葉として違和感があるかないかを考えてください。

その一

ある一人暮らしの老人が病になり、お世話に行こうとしたが、

その老人の家族に断られてしまいました。しかし、

その家族は老人のお世話を十分に果たしません。

先生、なんとかならないでしょうか?

「家族がそうしているのだから、仕方がないでしょう」

その二

ある一人暮らしの老人が病になり、教会へ来ることができなくなりました。

可哀そうに思った信徒が、その老人を教会へご一緒したいと申し出ました。

先生、私がその方を車にお乗せして、礼拝へ行きます。

「途中で何かあっても責任をとれないから、やめた方がいいでしょう」

その三

ある教会の方が言いました。

先生、教会にとって大切なのは、愛の業ではありませんか?

これらのことは、神の愛にかなっているでしょうか?

「そうしたいが、理想と現実は違います。

 物事には本音と建前があり、致し方のないこともあるのです」

 

さて、これらの言葉を

イエス・キリストはお語りになるでしょうか。

私は、イエスの言葉にふさわしくないと思います。

従って、このような言葉を教会で聞くようになったならば、

そこは、もう、教会ではないのかもしれません。

教会は、イエス・キリストの弟子が集うところだからです。

 

来週、長老の補欠選挙があります。

清き一票に責任を持ちましょう。

イエス・キリストの弟子としてふさわしい、

御心にかなった方を選ぶことができるように、

祈り求めましょう。

 

※上記の会話はフィクションであり、実在の教会とは無関係です。