氷室コンクール「随筆の部」入選しました!
戒壇めぐり
福江 ちえり
真言宗高野山の別格本山である俱利迦羅不動寺は、富山県と石川県の境にあります。平成十年十月十日、新しく西之坊鳳凰殿が落成されました。これは、かつて存在した十二ヶ寺の復興事業の一つであり、石川県津幡町に、奥の院を望んで建てられました。落慶式には、地元を中心にたくさんの人出があり、私も母と共にその中にいました。
落慶式のあと、人の列が本堂の右の奥に流れていき、つぎつぎと人が消えていくのが見えました。何があるのかと見ると、「戒壇めぐり」と書かれています。
「戒壇巡り。行こう、行こう。」
そう母がしきりに誘うので、「カイダンメグリ」という聞き慣れない言葉に思いを巡らしながら、私は母について行きました。戒壇巡りは善光寺が有名だそうで、この辺りにはなく、これは珍しい、有難いと、誰彼と話しているのが聞こえてきます。入口で、お坊さんが塗香を渡してくださいました。手に塗るとなんとも心地よい香りがします。そして階段を降りてゆくと、段々と光が届かなくなり、ついに真っ暗となりました。戸惑いながら目を凝らして、天井を見、手を目にしてみますが見えません。なぜ真っ暗なのか、どこへ行くのか、まるで分らないまま、壁にすがり、摺り足で、恐る恐る前へ進んで行きます。闇の中で、人の気配がだんだん遠ざかっていきました。そういえば、母はどうしたのでしょうか。
「お母さん、お母さん。」
「はい、はい。」
前方から声がして、先を歩いていることが分かりました。声を頼りに行くと、母は、
「ここに、これ。これで大丈夫だから。」
と、何かを摑ませてくれます。手に触れた大きな丸い物、それは数珠でした。入り口から出口まで続いているとのことで、この数珠を頼りに進めばいいと言います。なんだ、こんな便利なものがあるのかと、安心して数珠を頼って行くと、やがて人声が集まっている所へ出ました。「これだ」「ここだ」と口々に言い、「ほぉ」「あぁ」とため息が洩れ、経を唱える人もいます。如意宝珠でした。ここだけは、うっすらとした光に包まれており、水晶の丸い玉は、触るとひんやりとした硬さがありました。そうか、この暗闇の道のりは、この水晶に触れることが目的だったのか、と納得し、達成感と高揚感を得ていました。
無事に如意宝珠を触りましたし、また数珠を頼りに闇の中を進んで行きます。暗闇にも慣れ、危険もないことが分かり、足取りは打って変わって軽やかです。ところが、前を行く母に異変が生じました。歩みが遅くなり、身体が海老のように縮んでいます。
「怖い…」
如意宝珠までは、私が戸惑うほど早足だったのに、何を今さら怖がっているのでしょうか。
「大丈夫、危なくないから、ゆっくりでいいから。」
と、私は母の身体を抱えて歩き出しました。母の背は丸く、小さく、そして温かでした。
これまでの私ならば、呆れてきつく言ったかもしれません。だらしがないと、言ったかもしれません。しかし、そうはしませんでした。なぜなら、母は一年前に大きな手術を受けていたからです。何年も前から不調を訴えていた母でしたが、医者を嫌い、遅れ遅れになって、長くてもあと三年と宣告されていました。そのことを母には伝えていませんでした。術後、一時的な回復を悦んでいる母にはただ、出来得ることはすべてしようと決心していました。それは、母のためだけではなく、いずれ遺される私のためにも大切なことだと思っていたからでした。
私は、末っ子ということもあってか、負けん気が強くて、いつも思うことを力いっぱい訴えていました。母は表情豊かに応えてくれました。ところがある時、母は具合が悪かったのか、いつもの調子で熱弁をふるっていると、じっと私を見て、黙って微笑んでいるのに気がつきました。おそらく、一方的に話し続ける私が苦痛だったのでしょう。自身の不調に気付いて欲しいと思っていたかもしれません。私は自分の勝手さに気付き、そして、母は、もう、労わらなければならない存在になったのだと悟った瞬間でした。ちょうど、如意宝珠を過ぎて立場が入れ替わったように、母子の立場は、あの時、入れ替わりました。人は、その人生の中で、このように立場を入れ替えては生きるものなのだと知りました。
それから暫くして父と姉も誘い、戒壇巡りに訪れました。父はその昔、善光寺での体験を語りながら、いよいよ闇の中に入ります。しかし、ここで父は、なんとペンライトを持ち出し、悠悠と歩き出したのです。厳かな雰囲気など吹っ飛び、お笑いの空間となってしまいました。父とは最期まで喧嘩していたことを懐かしく思います。
尾池和夫先生 選評
尾池先生に「優れた構成」と評されたら、舞い上がってしまいました。さらに頑張らねば!と思いました。