呼吸のように・・・

俳句のエッセー

洗足木曜日

主イエスが、弟子たちの足を洗った日。

この日は最後の晩餐の日で、

夜、ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は、

翌朝、十字架に架けられます。

その最後の晩餐をおぼえ、教会では、

パンと葡萄酒をいただく、聖餐礼拝が行われました。

明日、イエス様は十字架で亡くなってしまうのですが、

晩餐の席では、そのようなことは知る由もありませんでした。

エス様の教えをいつも通りに聞き、

パンをいただき、葡萄酒をいただきました。

ただ、弟子たちの足を洗ってくださったことは、特別な事でした。

召使の仕事をなさるイエス様を不思議に見つめる弟子たちは、

私たちの姿でもあります。

主は、なぜ、私の足を洗ってくださったのでしょうか。

主イエスに洗っていただいた足は、気持ちよくて

あたたかに感じました。弟子たちは、幸せだったと思います。

しかし、その後、

ゲッセマネの園で、いつものように祈っていらした主イエスは、

役人に捕らえらてれて、高官の許へつれていかれました。

そのまま、主は、お戻りになることなく、

十字架上で亡くなります。

今日は、主イエスの最期の日です。

主よ。

貧しい私は、いつも祈りました。

私を殺さないでください。死なせないでください、

そう祈りました。

そして、主はその願いを叶え、

永遠の命までもくださいました。

主の命に替えて、私の命は繋がれました。

そんなつもりで祈っていたわけではありません。

私は、ただ、辛いことや悲しいことに出会ったとき、

主に嘆いていただけでした。

しかし、主は、その嘆きを聞き、

身代わりに極刑に架けられました。

私の身代わりでした。

この身代わりは、一見、不思議に思いますが、

最も大切なものをくださる、最善の策でした。

主が、なぜ死ななければならなかったのか

その意味すら、十分に理解できない私ですが、

主の愛は、分かります。

愛されていることを実感します。

主に洗っていただいた足は、今も温かです。

この記憶を、私の命がつづくかぎり心に留め、

主に倣った歩みができますことを、祈り願います。