今年のイースターは4月21日です。
復活祭といいます。
その昔、アダムとイブが造られました。
彼らは神様の言いつけを守らず、善悪の知識の木から
その実を採って食べたので、罪が入り込み、
人は土に返る存在になりました。
つまり、死ぬ運命となったわけです。
人の罪は深く、贖い切れません。
死とは、言いかえれば、「死刑」ということでしょうか。
しかし、イエス・キリストが、身代わりに極刑に処せられ、
私たちは、死刑を免れました。
私たちの罪は赦されたのです。
そして、その処刑から三日後、
イエス・キリストは復活されました。
死より蘇られたのです。
アダムによって入り込んだ罪の行きつくところは、死。
その罪を、イエス・キリストが担い、私たちの罪が赦されたのなら、
当然、死から解放されたということになります。
それで、まず、イエス・キリストが蘇られ、
人間の復活の初めとなられました。
このことは、終りの日、私たちが復活し、永遠の命に入る、
そのことを、あらかじめ知らせている出来事です。
「死が一人の人によって来たのだから、
死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、
キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」
(コリントⅠ 15:21.22)
イエスが、罪の贖いとして、十字架で死んだだけで、
復活しなかったとしたら、それは、
一つの贖いの献げものにすぎないことになります。
私たちは、死から遠のいただけで、いずれ死にますし、
イエスも死にました、というだけならば、
結局、誰もが死で終わりになります。
ということは、罪からの解放では、全然ない、ということです。
復活なしでは、私たちの信仰は意味がないと言えます。
終りの日、私たちは復活します。
イエス・キリストと同じように、復活します。
とても人間の知恵など及ばない、想像もつかない神の業により、
私たちは、再び目覚め、永遠の命を生きるようになります。
その時、私たちは天使のようになり、
神は私たちと一緒に住まい、
私たちは、神を賛美しつつ生きるのです。
復活がないと、イエス・キリストの十字架は、意味がないことになるでしょう。
しかし、私たちは、復活するのです。
このことを信じて、洗礼を受けました。
私は神の子となり、この肉は一度死を迎えますが、
再び目覚めて、永遠の命を得ます。
それが、罪からの解放、罪が赦されたということの結果です。
私たちが優れているからではなく、ただ神様に愛されて、
神様が身代わりに死んでくださって、命を得ました。
ただ、信じるだけでいいのです。
十字架の贖いを信じ、告白するだけで、赦されるのです。
それが洗礼。
洗礼を受けた者は、必ず復活して、命を得ます。
以上のことを信じています。
が、私は牧師や神父ではないので、
細かな部分で間違いがないとも言えません。
疑問、質問は、お近くの牧師、神父様にお尋ねください。