呼吸のように・・・

俳句のエッセー

受難節

今日は、受難節、第一主日です。

イエス・キリストが十字架に架けられ、三日目に復活される。
その復活祭(イースター)前の46日間を、受難節(レント)といいます。
受難節における最初の日曜日。
それが、今日です。

人類の救いのために十字架に架かられた
イエス・キリストの苦しみを思い、
私も、プチ我慢をします。

自分にとって大切な何かを、一つ、我慢することにしましょう。

たとえば、朝のコーヒーを我慢するとか、
休憩のクッキーを我慢するとか。
他には、PCのチェスを止めておこう、とか。

しかし、これが案外難しいのです。

毎日の生活の、ささやかなものだと言っても、
なかなか我慢できるものではありません。

結局、罪人の私は、
今年も何を我慢するか考えているだけで、復活祭を迎えそうです。

こういうことを言うと、キリスト者とは、
さぞかし真面目で、心優しく、つつましい生活をし、
殴っても、にこにこしている聖人だと、
思ったりしてはいませんか?

おそらく、それは全く逆でして、
右の頬を打たれたら、左の頬を出すどころか、
ボコボコにやり返してから、悔い改める。
むしろ、そちらに近いかもしれません。

これは、さすがにおおげさですね。

どういうことかというと、
右の頬を打たれて、左の頬を出すことは、するのです。
我慢してということもあるでしょうが、
想像してみてください。

大切な何かを守るために、考えられないほどのことを耐え忍ぶことが
人間にはできてしまうということを。

しかし、いつも、というわけにはいきません。

人というのは、いつも自分の限界に苦しむ存在です。
自分の理想を、いつもいつも実行できない。
そのような存在です。

その意味で、
自分が悪い者だと知っている、それがキリスト者です。
(開き直りではないのですよ)

だから、
なんでもかんでも、赦してしまうというのではなくて、
大変、厳しい面がある、ということです。

この辺りが、世間ではどうも誤解があるようでして、
幻想を抱いていると、痛い目をみるかもしれませんね。

エスの羊には、変わったものが多いと言われています。
(しかし、赤裸々な人間に、正しい姿などあるのでしょうか…)
自分の理想に破れたら、是非、教会の門を叩いてみてください。

自分の限界の中にこそ、
主イエスがおられます。
 
それが、救いです。
十字架です。
私たちは、そのことを信じています…


   受難節によせて
   御名があがめられますように