呼吸のように・・・

俳句のエッセー

美しい人

その方を知らないのですが、会ったことがないのですが、
この讃美歌をお好きだと言うことは知っています。
とても純粋な心の方で、
イエス・キリストに倣って生きておられることを知っています。
心の底の罪が顔を出す時も、
真直ぐに罪と向き合い、葛藤を続けられたのでしょう。
その方に会ったことはありません。
その半生を、心を閉ざして過ごされているようです。
それは、今も、ずっと続いています。
やがて、健康だった頃よりも、何倍もの時間を、
一人の孤独な世界で生きることになるのでしょう。
壮絶、です。
このような人生も、この世にはあるのですね。
その方を支えて、年老いたご両親がおられて、
しかし、弱ってゆかれて、
今、本当に一人きりになろうとしています。
そのことを分かっておられるのかどうかも
分かりません。
ただ、この讃美歌から、心を伺うだけです。
美しい讃美歌。
純粋な心。
あなたの人生を物語る、美しい歌です。
神様は、すべてご存知です。
あなたのすべてをご存知です。
そして、私たちも忘れていませんよ。
神様に、いつも、あなたのことをお祈りしています。

仲間を大事にできるか

先日の、大住 雄一 先生のセミナー、楽しかったですね。

歯に衣着せない物言いが、心地良かったです。

口が悪いように聞こえますが、細部には、

丁寧な言葉が使われていました。

決して、粗野ではなく、失礼でもなく、

細やかな配慮がうかがえました。

例えば、「なんでもかんでも神様のせいにするな」と言えば、

一方で、「お医者」と言ったり、

決して、乱暴ではありません。

それが、面白く、楽しく思えたのでしょう。

得ることはたくさんありましたが、一つには、

「仲間を大事にできるかどうか」とおっしゃいました。

仲間とは、御言葉を共有する仲間であり、

信徒たちのことだと受け止めました。

「決断の時、仲間と相談できるかどうか」

相談とは、信頼していないとできませんし、

胸襟を開かないといけません。

仲間と、そのような関係を築けるかどうか、

それも問われていると思いました。

仲間を大事にする、相談する、というはつまり、

「愛」があるかどうかをいうのであり、

愛があれば、細かなことを言わなくても

すべて網羅できるはずです。

愛をもって仲間と接すること、つまり、仲間を愛すること。

教会を愛すること、自分のように人を愛すること。

聖書に書かれていることです。

私たちは、御言葉を実践できるかどうか

問われているのでしょう。

葬儀について

先日、始めて臨済宗のお葬儀に出会いましたが、

その鳴り物の多さと、僧侶の「喝」の一声に驚いた次第です。

そして、その後、

教会の葬儀に出席しましたが、

なぜか、臨済宗の葬儀より30分以上も長いとは、

こんな話でしたか・・・

ご近所の方々が、

家族葬だと言っていたけど、こんな長いとは思わなかった・・・

そのような声が聞かれました。

この辺りでは、圧倒的に浄土真宗が多いわけですが、

浄土真宗は15~20分くらいのお経だと思います。

その後、法話があっても、45分程度のはずです。

お寺さんによっては、小難しいことを言う場合もあるようですが、

1時間以内には終わる算段です。

会葬の方々も、だいたいその予定でいらしていると思います。

連休中の葬儀。

1時間を超えて、出棺がまだとは、ちょっと間延びしました。

以前はなかった献花も、段々と懇ろになり、

また、会場スタッフは教会員ですから、訓練された人員ではありません。

手伝いに来た葬儀社との打ち合わせのまずさを思わせる案内の不備、

揚げ句に、棺の蓋を、聖餐台に置く始末で、

はらはらさせられ通しでした。

こんなに時間がかかっては、お付き合いの方々は

今後、出席を考えると思います。

説教も何も、感動もあったものではなく、

現代に見合わない非合理的な演出に、皆、食傷気味。

この教会、こんな話でしたか。

かつては、一切のお花も認めなかった、礼拝を重んじた

厳格な改革長老教会が、なんたるざまでしょうか。

いつの間に、こんなことになったのか、

疑問の声が上がっても当然でしょう。

今一度、礼拝としての葬儀について

議論の余地がありそうです。

臨済録示衆の章

臨済宗臨済録」示衆の章

  仏に逢うては 仏を殺し

  祖に逢うては 祖を殺し 

  羅漢に逢うては 羅漢を殺し

  父母に逢うては 父母を殺し 

  親眷に逢うては 親眷を殺して

  始めて解脱を得ん

 

修行の行き届かぬ私が、この文言について

何も語ることができないと思います。

ただ、以前、岡本太郎が本に書いていたことを思い出します。

ちょうど「芸術は、爆発だ!」が、流行った頃です。

臨済宗の記念講演か何かで、京都へ出掛けた岡本は、

その高僧が語る内容が、形骸化していると感じたらしい。

「だから、駄目なんだ」

このようなことを心に呟き、岡本は登壇しました。

臨済宗のお坊さんを前にして、

開口一番、

「皆さん、皆さんはこの京都の町を一週間歩き回ったとして、

 仏に出会えると思いますか」

会場は静まり返ったそうです。

「逢うのは己のみ。

 己に逢うては、己を殺せ!」

一瞬、どよめいた会場が、拍手の嵐と化しました。

なるほど、身に沿った解釈に脱帽です。

こうでなければならないでしょう。

 

私たち、キリスト者も、このように考えたいものです。

ゴルゴダの丘へ、イエス・キリストを追いやった民衆は、

その裁判の場において、一斉に叫びました。

「十字架に架けろ! 十字架に架けろ!」

ポンテオ・ピラトは、言います。

「この者に罪は認められない。それでもというのなら、

 この者の血の責任は、私にはない。」

ピラトは、ユダヤ人は妬みから、

エスを極刑に追いやろうとしていると分かっていました。

しかし、民衆の連呼は止まりません。

「十字架に架けろ! 十字架に架けろ!」

ピラトは抑えられず、イエスを十字架刑に処す決定を下しました。

 

私たちは「罪人」。

口先だけで言うのは簡単です。しかし、その意味を

十分に理解しなければなりません。

想像上のイエスではなく、歴史の話ではなく、

あなたの目の前の人を思い、叫んでみる必要があります。

「十字架に架けろ!」

これが、どのような意味を持つのか、考えねばなりません。

冤罪です。明らかな冤罪にもかかわらず、

気に入らないという理由で、殺そうとする、自分自身を見なければなりません。

そして、極刑に処せられても、なお、

「私は、あなたを恨んだりしない。

 分かっている。無知なだけだろう、君たちは。

 神様が君たちを赦しますように…」

このような感じでしょうか。

エスは、こうして息を引き取りました。

この歴史的事実を、我がこととして受け止め、信じ、

洗礼を受けたのなら、このことを深く受けとめねばなりません。

「十字架に架けろ!」

この言葉を語る私たちが、岡本太郎に失笑されないように、

しかと受け止め、深く黙想し、

伝えていかねばならないと思います。

 

ジュニア予選

本日、芭蕉俳句大会ジュニアの部

予選をいたしました。

選者は7名。

小学生、中学生、学年を問わず、

ごちゃまぜの天地人を選びました。

また、佳作は10作品でした。

結社が違うと、選も違ってくるわけで、

私から見たら、驚くべき作品もノミネートされていました。

私のような若輩が意見するなどおこがましい…

とは思いましたが、選者としての責任があります。

ここは、自分の主張を貫くことに決め、

選評をし合い、今一度、入選にふさわしいか議論。

結果、とてもいい作品を選ぶことができたと思います。

ジュニアと言えども、俳句の基本は写生。

残念ながら、季語の知識が乏しいために、

季重なり、無季語が多く、川柳的なものも見受けられました。

先生がもっと指導されればいいのでしょうが、

だれでも俳句をたしなんでいるわけではありませんし、

むずかしいところでしょう。

ともあれ、受賞作品として、恥ずかしくないものを選べたこと、

主に感謝します。

あとは、大会当日の盛り上がりを期待します。