父は洗礼を受けていませんでしたが、
最期は、讃美歌を歌う家族の中にあり、
聖書の朗読を聞き、信仰告白を聞きながら、
召されて行きました。
今、思えば、幸せな最期だったと思います。
明るい病室で、家族皆に囲まれて、
父は眠るように逝きました。
全く望まなかったわけではないと思います。
FEBCを聞き、「いい話やったな」と言ったこともありました。
聖書を読んで欲しいといったこともありました。
すべて、動けないほど弱ってからのことでした。
本当は、神を知らない父は、
讃美歌も聖書も主の祈りも信仰告白も、何もいらなかったはずです。
それでも、全てが備えられていたのは、ただ
神様の恵みだと思います。
望まない者にその身を捧げた神様の愛だと思いました。
父は天国へ行ったのでしょう。
今、母と共に、天の国にいるに違いありません。
神様は、そのような方です。
父は、私をミッションスクールに入れてくれました。
教会へ行くことを咎めませんでした。
神様は、父を愛してくださいました。
父は天国にいると確信しました……
一方で、キリスト者でありながら、
家族から捨てられるように死んでいった方もあります。
教会のために尽くして、それすらも忘れられたように
死んでいった方もあります。
それは、主イエスの姿に重なって思えました。
その方の死と、父の死を関係づけるのは良くないかもしれませんが、
信仰の目で眺めると、それらは、
主イエスと、私たち人間の姿のように思います。
望まなかった者を愛し、全てを備えて下さった一方で、
主イエスは、十字架で血を流されました。
この二つの死を、私は忘れることがないでしょう。
信仰の具体的な出来事として、心に焼き付けていきます。
天の国へ、父を招いて下さった神様。
その神の姿は、人に捨てられ、鞭うたれ、血を流された、
罪人の姿だったのです。
それは、本当は私たちの姿でした。
私たちの身代わりとなられたことを、忘れてはならないのです。