呼吸のように・・・

俳句のエッセー

極月

いよいよ12月となり、時間がありません。

年末ですから、はやめに仕上げたいのはやまやまですが。

来月は、兄も催事で戻ってきますし、

それまでに片付けたいと願っていますが、

やはり時間がない。

とうとう外注に踏み切りますか。

このままでは、肝心の「珈音」に手をつけられません。

やはり、外注でしょうか。

茫然としています。

何とか方法を考えねば。

この3か月程度の停滞の軌道修正に掛かっています。

こちらは徐々に回復しています。

始めると、楽しいですから。勉強にもなりますし、

それは、とてもいいことです。

が、時間が無い…

方法を抜本的に見直しです。

聖書の言葉

聖書に書かれていることを「御言葉」と表現したりします。

御言葉とは、「神のことば」という意味です。

よく、キリスト者を指して、

「それでもクリスチャンか!」

という暴力的な言葉を吐く方があります。

そう言いたくなるのは、あるいは誰にでもあることです。

ただ、その場合に、

聖書にはこう書かれている。

あなたは、なぜ、これを行わないのか、と、

他人様を批判する材料にする方があります。

よくあります。

御言葉を他人様に対して適応させようという態度ですね。

これは明らかに間違っています。

御言葉の適応は、絶えず、

自分自身に対して行われるものでなければなりません。

「右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさい」

と聖書に書いてあるから、という理由で、

殴りかかって来る人があれば、当然、抵抗致します。

自分の暴力のために御言葉を使い、利用しようとする人に言いたい。

御言葉は、あなたに適応されるべきものであると。

つまり、あなたが、右の頬を打たれたら左の頬を出すべきであって、

それを他人様に対して要求してはならないということです。

御言葉は、自身に対して語られていることであり、

人様を裁く道具ではない、ということです。

善悪の基準にはなり得ますが、

他人に対してのみ、適応されるものではないということを

よくよく理解しておかれるべきでしょう。

人は、罪人なのです。

そのための十字架であり、その十字架の救いを信じているのが

キリスト者です。

分かります?

やみくもに罪を赦すのがキリスト者、ではない、

ということですね。

覚悟した方がいいかもしれませんよ。

ドリップ珈琲

オリジナルドリップ珈琲を注文しました。

入荷まで、あと5日程度はかかると思います。

一度、試作してみましたが、

QRコードがあった方がいいというので、

今回はQRコードも印刷してみました。

皆様にお試しいただこうと思っております。

暫くお待ちくださいね。

第六波?!

また、新しい株がでてきたとか。

コロナの不穏がまた、ささやかれ始めました。

ワクチンの接種を終えて、私の場合ですが、

一度目の方が、じわじわと継続して、不調がつづきました。

二回目は熱が出て、胸部がかなり痛み、

ぞうきんも絞れないほど、腕に力がはいりませんでしたが、

それも数日。

すぐに良くなり、それっきりでした。

……と、思います。

いまのところ。

この調子ならば、3回目も大丈夫だと思います。

積極的に摂取したいと思います。

それにしても、心配ですね。

世間が、また、停滞しないようにお祈りいたします。

クリスマス、始まる

明日から「アドベント」に入ります。

待降節です。

が、教会は、このころ、最も忙しくなります。

矛盾していますが、聖夜礼拝、そしてクリスマス礼拝まで、

天手古舞の忙しさです。

自分を見失う人も続出。

信仰だけが支えということを体験するときでも、

あるかもしれません。

今日は一日前ですが、いよいよ始まりました。

クリスマス礼拝、第一号です。

私の母校の一つ、ミッションスクールの短大(今は四年制)の

支部同窓会のクリスマス礼拝でした。

私は、午前中に幸せ感いっぱいの、とあるウェビナーに参加し、

満たされたのち、急いで会場へ向かいました。

今日は恵みの一日でした。

献金のお祈りなど、いたしました。

献金のお祈りは、献金の感謝だけで足りるのですが、

お祈りしたくなって、ちょっと長い祈りになってしまいました。

申し訳ありません。

神様は許してくださると思います。

献金、感謝です。

お捧げすることができて、感謝です。

明日から、待降節

私は、何か詠めたらいいと、気持ちを新たにしています。