呼吸のように・・・

俳句のエッセー

源平桃

源平桃

紅白の咲き分け桃です。

 

源氏の白旗と平家の赤旗が入り混じって、

戦う様子を思わせることから、

源平桃と呼ばれるようになりました。

 

源平古戦場、倶利伽羅峠に植えられています。

 

  落日や源平桃の紅白に  Chieri.F

 

         源氏と平家が戦ったこの砺波山(倶利伽羅峠)。

   時を経て、今は桃の花が咲くばかりです。

   桃の花に沈んでゆく夕日に、栄枯盛衰という

   言葉を思い浮かべていました。

youtu.be

 

今、満開です。

アースディ

Who speaks for Wolf?

4月22日は、アースディです。

国連では、21日をアースディとしていて、

昨日は、代々木公園にて、 Earth Day Tokyo 2019 が開催されました。

私の兄の会社「段々色ギャラリー」もブースを展開し、

今回は、狼と森の研究所による、

本の森にオオカミを復活させ、調和の取れた自然生態系を取り戻し、

人間社会と野生動物がいきいきと共存できる国土を

実現することを目的とした活動に賛同し、

 

「Who speaks for Wolf ?」のTシャツを販売しました。

E.W.ニコルさんが、オオカミとイヌを連れて、

会場を散策していらしたとか。

詳しくは、是非、ネットでお調べください。

地球環境を考える日として、アースディは誕生しました。

原始、人は、自然の中でいかに生き抜くかを考えていました。

やがて、人は自然をいかに利用するかを考える時がきて、

今は、自然を保護する時代となっています。

文明が発達するとともに、人間は地球に対し、

責任を負っているということを知らされています。

オオカミの問題も、私たちヒトの問題です。

 

 

 

 

イースター

イースターおめでとうございます。

今朝、主は蘇られました。

朝、主のお墓を訪ねてみると、空っぽでした。

ご遺体すらなくなるなんて、戸惑い、絶望して

泣き崩れてしまいました。

主よ、主よ、

誰が、どこへ運んでしまったのでしょうか。

何故、そこまで執拗に私たちを追い詰めるのでしょう。

悔しさと悲しみで目が見えなくなるほどです。

そこへ、

「なぜ、泣いているのか」

と、声がします。その問いに目をあげると、

それは、主イエスご自身でした。

まさか、いえ確かにイエス様です。

「ラボニ!」

感極まって、思わず抱きつこうとしました。

しかし、主は制されて、

まず、弟子たちにこのことを告げるように、仰います。

これは、マグダラのマリアが経験したことでした。

マリアはどれほど喜んだでしょうか。

私の両親は、もう天国へ行きましたが、

誰かが、

「お父さまが、あの通りを歩いていましたよ」

と告げられたら、そんなはずはない、と思いつつ、

やはり言われた場所へ急ぐに違いないと思います。

母の後ろ姿に似た人が歩いていると、

絶対、母ではない、と分かっていても、

動悸が激しくなり、つい、追いかけてしまいます。

その願いは、必ず失望に終わったのですが、

今日、追いかけて行った後姿が、母その人であったなら、

紛れもない父であったなら、私は歓喜して抱きついたことでしょう。

ご復活の主に出会ったマリアの感激は、

はかり知ることができないほどです。

今日、主は蘇られました。

裏切って、ごめんなさい。

ついて行けなくて、ごめんなさい。

しかし、主は、蘇られ、

変わらぬ愛のまなざしを向けてくださいます。

イースター、おめでとうございます。

主は、永遠に私たちの主。

主は、死にうち勝ってくださいました。

私たちの恐れは、永遠のかなたへ去ってしまったのです。

受難日

今日は、主のご受難の日。

十字架に架けられた日です。

午前9時に木に架けられ、午後3時にお亡くなりでした。

十字架刑は、木に打ち付けて放置する残酷な刑です。

約6時間で亡くなったのですが、

とても短いという話を耳にしたことがあります。

分かりませんが、

十字架刑の場合、絶命まで、もっと時間がかかると予想されているようです。

残酷な刑です。

主は、黄泉に降られました。

残された私たちは、主を裏切ったという

良心の呵責に打ちひしがれています。

何事もない、平穏な時であれば、何とでも言えます。

「たとえ死ぬようなことになっても、あなたを裏切りません」

などと、言うは簡単、行うは難しです。

結局、弟子たちは、蜘蛛の子のように、散ってしまいました。

自分の姿にがっかりし、主を失った悲しみに打ちひしがれ、

弟子たちは引きこもっています。

途方に暮れていることでしょう。

この夜、弟子たちは、何を考え、どうやって過ごしていたのでしょうか。

弟子たちに思いを重ねて見たいと思います。

 

洗足木曜日

主イエスが、弟子たちの足を洗った日。

この日は最後の晩餐の日で、

夜、ゲッセマネの園で捕らえられたイエス様は、

翌朝、十字架に架けられます。

その最後の晩餐をおぼえ、教会では、

パンと葡萄酒をいただく、聖餐礼拝が行われました。

明日、イエス様は十字架で亡くなってしまうのですが、

晩餐の席では、そのようなことは知る由もありませんでした。

エス様の教えをいつも通りに聞き、

パンをいただき、葡萄酒をいただきました。

ただ、弟子たちの足を洗ってくださったことは、特別な事でした。

召使の仕事をなさるイエス様を不思議に見つめる弟子たちは、

私たちの姿でもあります。

主は、なぜ、私の足を洗ってくださったのでしょうか。

主イエスに洗っていただいた足は、気持ちよくて

あたたかに感じました。弟子たちは、幸せだったと思います。

しかし、その後、

ゲッセマネの園で、いつものように祈っていらした主イエスは、

役人に捕らえらてれて、高官の許へつれていかれました。

そのまま、主は、お戻りになることなく、

十字架上で亡くなります。

今日は、主イエスの最期の日です。

主よ。

貧しい私は、いつも祈りました。

私を殺さないでください。死なせないでください、

そう祈りました。

そして、主はその願いを叶え、

永遠の命までもくださいました。

主の命に替えて、私の命は繋がれました。

そんなつもりで祈っていたわけではありません。

私は、ただ、辛いことや悲しいことに出会ったとき、

主に嘆いていただけでした。

しかし、主は、その嘆きを聞き、

身代わりに極刑に架けられました。

私の身代わりでした。

この身代わりは、一見、不思議に思いますが、

最も大切なものをくださる、最善の策でした。

主が、なぜ死ななければならなかったのか

その意味すら、十分に理解できない私ですが、

主の愛は、分かります。

愛されていることを実感します。

主に洗っていただいた足は、今も温かです。

この記憶を、私の命がつづくかぎり心に留め、

主に倣った歩みができますことを、祈り願います。