呼吸のように・・・

俳句のエッセー

有頭海老事件

年用意を終えて、お蕎麦をいただき、

みかんを食べながらテレビを見る、

晦日の過ごし方です。

私の母は、もう20年近く前に亡くなりましたが、

おせち料理を一緒に作っていたことを思い出します。

買い出しリストを作り、丁寧に吟味して

一つ一つ買い足していきます。

欠かせないのは「海老」です。

魚屋さんの店頭には、今日の日のために仕入れられた海老が並びます。

もちろん頭がないといけません。

「有頭海老」と書かれ、5尾、それ以上がひとまとめにされて、

値段が付けられていました。

母と私は、選ぶのが楽しくて、あれこれ話し合い、

ようやくお気に入りの海老を購入しました。

帰ってからは大忙しです。

野菜の下ごしらえは私が、母は煮物に専念します。

やがていい匂いがしてきたので、私はちょっと鍋の蓋を取ってみました。

平鍋に丁寧に並べられ、海老がくつくつと煮詰まっています。

海老は煮詰めると色が鮮やかになり、実に美味しそうです。

が、何か変です。

「お母さん!」

叫んでいました。

「頭は?」

どの海老の頭も、きれいに取られていたのでした。

「あら!」

母も驚いています。

我が家では、あまり海老の頭を好まなかったので、

いつも海老は、大きな海老は、頭を取って煮ていたので、

どうも、いつもの癖で、頭を捨ててしまったようでした。

「何のために有頭海老を買ってきたか、わかってる?」

「あら」

母は、「あら」と繰り返すばかりで、ついに笑い出しました。

結局、おせちの主人公の海老は、頭なしで

お重に納められたのでした。

我が家で起こった「有頭海老事件」でした。

おしまい。

年の瀬

明日は、今年最後の礼拝です。

今年もたくさんのことがありましたが、

特別なことが多かった一年でした。

教会とは何か、

考えさせられました。

また、同じ教会に集っていても、

人が変わればこれほど変わるのかとも思いました。

大戦を学び、未熟ながら、一つの考えを抱きました。

それは、「東条英機論」と勝手に命名していますが、

適材適所、この重要性についてです。

私は、東条は悪い人間ではなかったと思います。

ただ、首相の器ではなかったのではないかと考えます。

それによって、3000万もの日本人が命を落としました。

悪い人間かどうかという問題ではなく、

その時々の行動が、悪いかどうかだと思います。

完璧な人間などいないように、

心底悪い人間も、また、いません。

あるのは、適正に反した行動であるといえるでしょう。

それは、人の個性や得手不得手を考えて、

適材適所という概念から外れていた、ということだと考えました。

現代、社会も多様化が進み、生活もよくなり、

教育の環境も整っています。

環境もある程度選ぶことができます。

その中で、適材に配置されない、特に組織の上層部に位置する人たちは、

その結果、組織を大変な惨事に追い込むことになるやもしれません。

いえ、そうなるでしょう。

指揮官が誤れば、部隊は全滅です。

戦時の兵隊ではない私たちは、命令をうのみにするのではなく、

賢く人を見なければなりませんし、

自分を磨いていかねばならないでしょう。

すべての人が指揮官になる必要はありませんが、

おのおの、その持ち場に於いて、最高のパフォーマンスができるように、

自分を訓練していく必要があるでしょう。

そのうえで、適材適所、

本人も周囲も見極めていきましょう。

3000万もの日本人が死んだ大戦のようになってはならないと

思うのであります。

与えられるもの

寒いと思ったら、雪になりました。

今、屋根瓦の先の色が分かる程度に、うっすらと雪が積もっています。

雪は静かに降り積もっています。

冬になれば雪が降り、春になれば、その雪が融けて花が咲き、

季節は繰り返しています。

その自然を詠むのが俳句です。

毎年、繰り返される景色を生き、

その中での発見を、感動を十七文字に表現します。

繰り返される自然は、しかし、同じものはないと言われてはいますが、

それを、鋭敏な心の襞で感じ取り、異なった感動を詠みあげることは

並大抵のことではありません。

想像で物を言うと、必ず行き詰まります。

必ず類想句となります。

つまり、陳腐ということです。

人の考えることは、それほど違っていないからです。

想像してみてください。

先日のクリスマスに於いて、讃美礼拝の風景を詠んだとしましょう。

しかし、同じ場所で、同じように行われる讃美礼拝で、

違った何を詠むというのでしょうか。

蠟燭ですか。讃美歌ですか。

それらは、誰もが詠むのであり、かつて詠んだものに違いないのです。

そのかつての自分を超えて、作句しなければなりません。

そのために、本を読み、感性を磨き、言葉を磨いて、

新しい十七文字が生み出されるのです。 

質の高い作品は、続けてこそ評価を得るのであり、

その他は、ビギナーズラックといい、誰にでも起こることです。

続けて新しい発見と感動を詠みあげること、

それは、頭で考えるものではありません。

言葉は、徹頭徹尾、与えられるものです。

自然を観察する、そこから与えられるものであって、

頭で想像し、考え出されるものではありません。

まず、目で見て、手に触れて、肌で感じなければならないのです。

教会では、「牧会なくして説教なし」と言いますが、

著名な誰かの言葉を継ぎはぎしたところで、感動は生れません。

そんな無様なことをしでかしてしまうのは、体験がないからです。

病気の人を見舞い、悩んでいる人の話を聞けば、

言葉はいくらでも与えられるものです。

目の前の人を見て、分析せよと言っているのではありません。

分析することほど、無礼で人を傷つける行為はありません。

ただ、目の前の人が自分だと想像するだけでいいのです。

それが、すべてです。

自然を観察し、時には、そのものに成りきることが

新たな視点を発見し、感動を生み出します。

言葉は与えられるもの、

それは、間違いなく、そうなのです。

 

 

 

 

立て、行こう

「立て、行こう。

 見よ、わたしを裏切る者が来た。」

ゲッセマネの園において、血の滴るような祈りをされたイエスが、

死ぬばかりに悲しいと言われたイエスが、

その十字架を受け入れた瞬間でした。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」

「その杯」と言われた十字架を、

主イエスは選び取られた言葉だったと思います。

主は言われます。

「立て、行こう」

それが、人の目には愚かなことであったとしても、

人には不思議に思えることであったとしても、

主が先に立って進まれる業である限り、

私たちは、主の道に従います。

神様のなさることに間違いはありません。

神様に従うとき、神様はすべての責任をお取りになります。

一人ではありません。

主が先だって進まれます。

神の愛の業のために、

「さあ、立て、行こう。」

主がお呼びです。