呼吸のように・・・

俳句のエッセー

哉哉先生

オンライン俳句図書館、今年の初めは、

島村哉哉先生の

「枯野ゆくイエス・キリストのあとを行く」

を選んでみました。

キリスト者ですので、哉哉先生の俳句は身近に思います。

「枯野」とは良く言ったものです。

が、ご本人は、この季語をどれほど意識しておられたか、

それは分かりません。

実景であったようです。

私は、季語がよく効いている一句だと思い、

よくお考えになった季語かと思っていました。

もし、実景であって意識せず仕上がった一句であれば、

これは、神様の作品だと言えるかもしれません。

枯野ゆく……の一句は、教団では大変有名です。

哉哉牧師は、鹿火屋に長く投句されていたようで、

「原石鼎」(主宰)という名が登場する一句もあります。

連綿と続くキリストの歴史、そして俳句の歴史は、

こちらの句集『信仰歳時記』から伺うことができます。

昭和46年の発刊ですので、

古い東京、富士見町の風景も記されており、

土地に詳しい方は、また、一味違った読み方もできるでしょう。

私は、歴史が好きで、特にその時代に生き生きと活動する「人」に、

魅力を感じ、知りたくなります。

先日、姉の大学の先生が、姉にカレンダーを送ってくださったのですが、

それは、ペシャワール会中村哲氏の言葉がつづられたカレンダーで、

その中に、

「我々のできることは、あまりに小さい。

 しかし、大切なことは、あらゆる人々の中に

 潜んでいる良心を糾合し、この灯を絶やさぬよう

 地道に仕事を続けることだと信じている」

という一文がありました。

私たちにできることは、小さなことでしかありません。

ですが、その小さな灯、一つ一つが大切な意味を持つのだと、

励ましてくれていると感じます。

私たちの存在は、あまりに小さい。

けれども、その小さな一粒の灯こそが、

掛け替えのない、大きな存在なのではないでしょうか。

神によって造られた「小さな人」の「偉大な存在」は、

糾合されて世界を変える力となるでしょう。

私は、この小さな存在に、いつも胸を熱くします。

おそらく、神様も同じように、もっと熱心に

私たち一人一人をご覧になっておられるのだと思っています。