呼吸のように・・・

俳句のエッセー

「死」を生きる

 「死」を生きる、というタイトルで、雉誌6月号に、エッセイを書かせていただきました。ちょうど青木さんが亡くなったところでしたので、青木さんのことをご報告しようと、このテーマにしました。

 短い文章でしたので、すべてを書くことはできませんでした。

 これは、青木さんの四十九日での出来事で、かつての同僚の方々、病院関係の方々が、たくさん見えていた席上でのことです。その中のお一人が、この証言者、Yさんでした。ずっと、

「泊先生と、亡くなる一週間前に食事をしたんや!」

と、あちらこちらで話をされていましたが、「そんなはずはないでしょう…」と、どなたも相手にしないでおりました。が、よく聞くと本当のようで、それで真剣にお話を聞いたというわけです。

 亡くなる一週間もなかったと思う、5日も前だったかな…あそこのY(居酒屋)で、泊先生と、5人で食事したんや。病院を抜け出して…それもどうかと思うけど、ここまで来て、二次会に〇〇〇(もうありません)まで行ったんや!

このようにおっしゃいました。泊先生は、金沢大学病院に入院されていましたが、近くにK医師という方が開業しておられ、K医師は、かつて、同じ病院に勤務していた先生でした。そのK医師の責任のもと、泊先生は外出されていたのでしょう。泊先生はK医師、そして薬剤師Yさん、Tさん、そして総婦長の青木さんに、最後のお別れにいらしたということだと思います。泊先生は、「もうだめなんや」とおっしゃっていたそうです。泊先生は胃癌でした。私の両親も癌でしたから少しは分りますが、最後は急激に悪くなります。明日にも動けなくなるということは、分かっていらしたのではないでしょうか。私が、そんな状態で、泊先生はお食事できたのですかと質問しますと、Yさんは、

「あ、うん」

と言葉を濁されました。おそらく、泊先生ご本人は、お召し上がりにはならなかったのでしょう。なれなかったのだと思います。

 そうして、旧知のお仲間と最後のお別れをし、泊先生は天に召されました。

医者は自身で分かるだけに、最後は人にはない辛いこともあったと思います。そんな時に支えてくれる友人がいたこと、皆さんが泊先生をこんなに慕ってくださっていたと知り、嬉しくて嬉しくて…とお電話くださったのは、泊先生の末の妹さんでした。お葉書も頂きました。泊先生は、俳句だけでなく、人生の師であったと、書かれていました。

 私などが、本当は親しげにこのようなエッセイを書く立場ではないのですが、私も短いながら泊先生には句会でお世話になりましたので、なつかしくて、書かせていただいた次第です。

 思わず暴露した形になり、お叱りを受けるかとびくびくしておりましたが、皆様、喜んでくださって、私も胸をなでおろしています。

 俳句のいい関係、いいお話に、私たちは悲しみを新たにしています。

 

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