俳句は、ご存知の通り、五七五の定型詩です。
音で数えるのであり、文字数ではありません。
豹歩む三光鳥のこゑのなか 和生
上五 豹歩む(ひょうあゆむ)「ひょう」=2音
中七 三光鳥の(さんこうちょうの)「ちょう」=2音
座五 こゑのなか(こえのなか)
このように「音」によって数えるわけです。
俳句は、この日本語の「音」が基本となった詩歌であり、
季語を一つ詠み込むことが決まり事としてあります。
これは、よく考えると、日本語でしか表せない文芸だと言えます。
しかも、短いために、表現は限られます。
俳句は、基本が「写生」であり、感情表現は受け付けません。
表現が甘くなるからです。
「うれしい」「悲しい」等の表現はふさわしくありません。
これでは「散文」となってしまい、俳句は散文ではないので、
そのような「散文調の表現」は良くないと言われます。
この辺りが難しいところです。
日本人でも難しいのに、これを外国語で言い表すのは、
常識的に考えて、不可能ではないでしょうか。
近年、「英語俳句」とか「国際俳句交流」だとか、
私も肯定し、かかわることができたらいいと考えても来ましたが、
このコロナの問題が表出し、改めて考えてみました。
俳句を広く紹介するのは素晴らしいことです。
ただ、実作について、日本語以外の言語で俳句は成り立つでしょうか。
「音」の問題。日本の四季を基本にした「季語」の問題。
明らかに散文とは異なるということ。
「わび」「さび」「滑稽」……
これは、日本人でも難しいわけですが、
外国語を用いて成り立つ文芸なのでしょうか。
私の意見は、俳句は日本語で詠むべき、です。
同じご意見の先生方も、多くいらっしゃいます。
古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉
この句を読んで、蛙は何匹飛び込んだでしょうか、と質問すれば、
日本人は迷わず「一匹」と答えるでしょう。
むしろ、この質問を怪訝に思うに違いありません。
しかし、あの小泉八雲でさえ、複数としてとらえていたようです。
この俳句を、英語にしている方は多く、たくさんの英語表現がありますが、
蛙の数を複数と捉える感覚的違いは、埋めようがないと感じます。
そして、この感覚こそ、俳句の心髄だと考えています。
俳句は、日本語で詠むべき。
それが自然ではないでしょうか。