ペンテコステ、おめでとうございます。
各教会では、ペンテコステ記念礼拝が行われ、
イベントもあり、盛りだくさんのいい日でした。
充実した一日を感謝します。
さて、なぜか、「城の石垣」の譬えが複数耳に入りましたので、
つたない知識ですが、参考までに記したいと思います。
金沢城は、「石垣の博物館」と言われています。
このように呼ばれているお城は、全国にいくつかありますが、
金沢城も、その一つです。
金沢城の石垣は、「戸室山」から切り出した「戸室石」でできています。
戸室石は、比較的柔らかな石なために、30年程度だったかで、
石垣が孕んでくるため、修理が必要でした。
「孕む」という言葉は好きではないのですが、
専門家の先生がそう仰いましたので、私も使いました。
つまりは、積み上げられた石の中央が、膨らんでくることを言うようです。
歪んでしまうので、修理を繰り返した結果、
あらゆる年代の石垣が、城内にみられることとなり、
「石垣の博物館」とよばれているというわけです。
一番古い石垣は、「野面積み」といい、自然石を積み上げていきます。
自然石なんて、崩れそうだと思うかもしれませんが、
石は見えている部分より奥が深く、長い石を使われていますので、
重みがあり、丈夫です。隙間は小さな石を嵌め込んで埋めます。
次に登場するのが、「打込みはぎ」です。「接ぎ」と書きます。
自然石の表面や側面を、簡単に打ち込んで加工した石を使います。
より高く積み上げることができるとか、ということのようです。
そして、江戸期に入り、城普請の技術も発達し、「切込み接ぎ」が登場します。
きれいに加工された石が、整然と重ねられた石垣です。
これが一番新しい石垣です。
これによって、石川門から入って、正面と左手に見える石垣は、年代が違うことが解ります。石垣の石に彫られている家紋も見つけてください。
ちなみに、石川門は搦手門(裏門)です。
また、左手の建物は菱櫓です。新しい菱櫓ばかりが目立ちますが、当時の菱櫓も、ちゃんと残っていますので、ご覧ください。時々、公開されます。
金沢城は、何度か大火を経験していますが、鉛瓦が融け出した跡が、石垣に残っています。
人を石垣にたとえるのは良くありますが、
なんか「風林火山」武田節を思い出してしまいました。
「人は石垣 人は城」詩吟ですが、上手な方が身近にいらっしゃいます。
「城の石垣」は、日本人の骨肉に沁みついているもののようです。