銀貨30枚でイエスを裏切ったユダは、
イエスが有罪になったことを知って後悔し、
その銀貨を持って、祭司長、長老たちのところへ行きました。
「わたしは、罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」
そう言って、銀貨30枚を返そうとします。
ところが、彼らは、
「我々の知ったことではない。お前の問題だ」
そう言いました。
ユダは、銀貨を神殿へ投げ込んで去り、
首を吊って死にました。
人は、罪の赦しがないと生きられません。
神に代わって罪の赦しの権限のある祭司・長老へ、
悔い改めて訪ねて行ったユダは、
間違ってはいませんでした。
確かに、罪の赦しは、そこにあるはずでした。
しかし、「お前の問題だ」と言って追い返されます。
ユダは、悔い改める唯一の場を失いました。
悔い改めを赦されず、罪を「お前の問題」として、
その身に引き受けるということは、死しかないということです。
ユダは、首を吊って死にました。
私たちも、罪をこの身に引き受けて、生きることはできません。
終ってしまった過去から解放されず、
罪の意識から解放されずに生きることは、
死と何が違うと言うのでしょう。
イエス・キリストは、
私たちの身代わりに十字架に架かり、
私たちの身代わりに、死んでくださいました。
その死によって、私たちは罪を赦された者として、
過去を清算し、生きることができます。
その赦しが与えられなければ、身代わりの十字架の死がなければ、
自分の死があるのみです。
現在では、教会が、主の赦しを与える場所です。
私たちは悔い改めて教会へ行き、赦しをいただきます。
もし、赦しが戴けなければ、私たちには、死しかありません。
悔い改めたならば、教会へ行きましょう。
そして教会は、悔い改めた者へ罪からの解放を与えます。
私たちは、お金があっても、健康であっても、自由があっても、
罪があれば生きられません。
神の赦しがあり、神を知ることがなければ、
人は生きられないのです。
教会には、唯一、命があります。
「人はパンだけで生きるのではない。
神の言葉によって生きる」
ユダの悲劇は、もうありません。
あなたの持ってきた銀貨30枚は、
教会が、必ず、受け取り、清算してくれるでしょう。
罪の負債を帳消しにしてくれるのは、
主の十字架しかないのです。