教会に連なる一人として、命について思いを巡らせます。
教会とは家族と同じで、幾世代もの方々が集っておられます。
核家族、少子化の進む現代では、実際の家族以上に
人の一生とはどのようなものであるかを、
教会は教えてくれる場でもあります。
命には、限りがあります。
私も母を送りましたし、父を送りました。
いずれも不治の病でしたので、その最後の時は、
ある程度の覚悟のうえで迎えることができました。
今は長寿の時代ですから、比較的若かったというものの、
それなりの人生を送っての最期でした。
その両親と同じ思いを、教会では、何度も体験することになります。
出会い、そして、別れ。昇天し、また、誕生し、
私たちの命は、連綿と受け継がれていきます。
私もまた、いつか、この舞台から降りる時がやって来ます。
何と言って召されましょうか。
何と言って送りましょうか。
かつて、遠藤周作が、肺結核で死にそうになった時、
神父の友人が言った言葉、
「私が祈っているから、安心して死んでくれ」
この一言で、周作は、
「死んでたまるか」
と奮起したそうです。が、それは若かったからかもしれません。
晩年ならば、「有難う、よろしく」
そう言ったかもしれません。
生きざまは、死にざまと、よく言います。
どのように生きるかは、どのように死ぬかにつながるというのでしょう。
私はキリスト者として生き、それらしく最期を迎えたい。
キリスト者として、みじめで、無様でありながら、
喜びに満ちた最期だったと証することが出来たら、
これ以上のことはありません。