呼吸のように・・・

俳句のエッセー

年の豆

立春の前日が「節分」です。
ですから、「節分」までが冬になります。
神社などで、豆撒き等の行事があります。

「豆撒」は、他に、豆打・鬼の豆・鬼打豆・年の豆・福豆・年取豆…など
同じ種類の季語があります。
また、追儺(ついな)の豆という意味で、
追儺豆」という言葉も、良く目にします。
鬼は外、福は内…と、豆を撒き、「豆打」「鬼打豆」。
自分の年の数だけ拾う、「福豆」「年の豆」。
このように、微妙な違いを理解して、俳句に詠んでいきます。

先日、尾山神社での節分祭で、たくさんの豆が撒かれました。
踏みしだかれ、畳が豆の屑でいっぱいになった所もありました。
豆を拾うのに、少し恥ずかしさを感じ、
そっと手を伸ばしては、一つずつ拾ったりしてみます。
半分に割れてしまった豆も拾い、年の数には入れません。
しかし、そんなことをしなくても、年の数だけで十分な量があるはずです。
つまりは、そのことにこそ恥じらいを感じていた、ということでした。
豆撒きなんて、本当に久しぶりです。
年を取ったものだ…などと心でつぶやきながら、
年の豆を拾ってみました。

帰りに、池に寄り、鯉の様子を見てきました。
寒さに泳ぎが鈍くなっている大きな鯉の影が、ゆらりと動きます。
いじらしい寒の鯉に、福豆を与えて、激励しようと思ったのに、
池の鯉たちは、一粒の福の豆に、驚くような速さで散ってしまいました。
福豆に危険を感じた鯉たち。
豆は池の底に沈んでしまいました。

鬼は外、福は内。
追儺豆のその後にも、物語があり、様々な名前で旅をするようです。
そして、その結末のほとんどが、おなかの中だというわけですね。