教会婦人会例会。
井ノ川先生のお話、「画家たちはキリストの復活をどのように描いたか」。
キリストは甦り、弟子たちに現れてくださいました。
十字架上のイエス・キリストの姿よりはるかに少ない復活のイエスの絵は、
それでも多くの画家たちに描かれています。
その中でも、エマオでの道でイエスと出会った二人の弟子は、
良く描かれているといいます。
食卓でパンを割くイエスの顔、その瞳は、どこを見ているのでしょうか。
今、目にすることのないイエスの姿。
私たちはイエス・キリストの顔を、各々が心で描いています。
多くが、自分の理想とする姿を思い浮かべているのでしょう。
本当の姿は、どのようだったのでしょうか?
それは、必ずしもイメージ通りではないかもしれません。
人となられた神の姿がどのようであったのか、想像できるものではありませんが、
事実、イエスという人物は、この地上に生きていらしたのです。
復活のイエス・キリスト。
それは、今、生きておられるキリストです。
キリストにまみえるとき、何を思うのでしょうか?
目の前のイエスを愛せるのでしょうか?
エマオへの道で、二人の弟子は、なぜ、すぐにイエスとわからなかったのか、
単純な疑問です。
亡くなる前のイエスと、あまりにも違っていたからでしょうか?
それとも、常識的な感覚が、見えなくしていたのでしょうか?
二人の弟子が見た、イエスの姿に想いを馳せ、
画家たちは描き続けます。
私を愛し、私が愛するイエスの顔は、
母、マリアに似ているとか、鼻が高いとか、そのようなものではありません。
私の醜い心を、その敵意を一身に受け、
罪なき人が犯罪人とされて、名誉を奪われ命を奪われた、その姿であり、その顔でした。
それがイエス・キリストの顔です。
それでも、こんな私を赦して、目の前に現れてくださる姿であり、お顔なのです。
画家たちの描くイエスの顔に見入ります。
(あなたが、この地上を生きて、十字架上で死なれた方ですね)
画家が描いたイエスの顔は、どれも出会ったことのない表情のように思えました。
愛してやまない、ただの人の顔でした。