呼吸のように・・・

俳句のエッセー

いかづち

予報通り、夕方から雷が鳴り、激しい雨音がしてきました。
そういえば、主イエスが十字架上で亡くなるとき、
雷雨になったと聖書は告げています。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
十字架上でのこの言葉は有名です。
キリスト者でなくても、ご存じの方は多いのでしょう。

窮地に陥ったと思うときも、神に見捨てられたと思ったことはありません。
ただ、いつも「助けてください」と叫んではいますが。
神に、「どうして私を見捨てたのか」と問うのは、どのような思いでしょうか?
私が、イエス・キリストの思いを理解できるとは考えませんが、
もし、私が神に、そう叫ぶとしたなら、
それは、神を信頼しているからではないかと思います。
神は絶対に私をお見捨てにならない、そう信じるからこそ、
最後には必ず来て下さると信じるからこそ、そう言える気がします。

もし、相手が人間であったなら、
あてにならない、欠点だらけの人間であったなら、
諦めて、「なぜ」と問うことはないでしょう。
なぜも何も、最初から救う力などないからです。
弱くて、結局保身に回るような存在が、「人」だからです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
あなたは、全知全能の神であられ、不可能はなく、欠けるところない愛のお方です。
いつ、私を救いに来て下さるのですか?
それが今でなくても、あなたは必ず来て下さる。
それは、いつですか?
このような思いが凝縮されている、そう思います。
少なくとも私なら、そうだと思います。

事実、主イエスはご復活され、死に打ち勝たれました。
神様のなさることは、すべてに意味があります。
その神様を信頼している、私たちキリスト者です。

苦しみの時、悲しみの時、試練の時、
この神を呼んでみてください。
「信頼します」とか、上等な言葉でなくても良いのです。
「なぜ」と、問うてください。
絶対に無駄ではありません。

主は、素敵な方です。