教会では、色々な出来事を、
キリスト者としてどのように考えるかを問われます。
たとえば、誰かの不躾な態度があったとして、
それにどのような対応をするか、ということがあります。
一般的に、社会では注意をしたりするわけで、
それは教会でも変わりません。
ただ、問われるのは、
その行為に、愛があるか、ということです。
相手に対しての愛がなければ、
正しい指摘や行為も、偽善になってしまいます。
愛がなければ仇になってしまうことが、大いにしてありうるのです。
ただ、その「愛」が受け入れられるかどうかは別問題です。
こちらに「愛」があっても、それを受け入れるかどうかは、
相手の自由ですから、無理強いはできません。
受けいれられなければ、辛いですね。
悲しいです。
けれども、だからと言って、
相手を責め、批判することはできないのです。
では、どうすればいいのでしょうか?
祈ることです。
祈ってどうなる…ということはありません。
祈りは聞かれます。
すぐにではないかもしれません。
しかし、最も適した「時」が備えられています。
それを信じるのが、信仰です。
私たちに問われていること、それは、ただ一つ。
その行為に「愛」はあるか?ということです。
常に自分に問いかけていきましょう。
(祈祷会にて…)