花野らしい花野は、今ではほとんど見られなくなりました。
けれども、田舎に住んでいると、
空き地に草花が咲き競っているのを目にします。
貴重な光景かも知れません。
マタイによる福音書にある、有名な「山上の説教」に、
野の花のたとえがあります。
野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。 (マタイ6:28-30)
だから、思い悩むな…というのです。
野の花は、確かに可憐で美しく咲き誇っています。
しかも、確かに「働きもせず、紡ぎも」しません。
働きの代価として、あるいは報酬として、美しくされているのではないのです。
まったくの恵みとして、装われている野の花たち。
まして、私たち人間の必要を最初からご存じの神は、
私たちに、野の花以上のものをくださらないはずがありません。
若い頃、家の手伝いをしない姉に向かって、
「野の花」のようだ!と言ったことがありました。
「働きもせず、紡ぎもしない」というわけです。
語呂がいいので、つい口にしてしまいました。
それはそうと、当たり前に与えられているものを、時々は意識して
感謝の思いを抱いても、悪いことはないと思いますね。
そう思いませんか?