日曜日は主の日。
月の最初の主日は、聖餐が行われます。
パンと葡萄酒をいただくのですが、これは、キリストの体の象徴です。
最後の晩餐において、イエスが弟子たちに、
これはわたしの肉である。
これはわたしの血である。
そう言って、パンを裂き、葡萄酒を配られた、同じ食卓に与るのです。
ゲッセマネの園で、血が滴る祈りをなさった主イエス。
できることなら、この杯を、わたしから過ぎ去らせてください…
それほどの苦しみを訴えられたイエス・キリストは、
その死に至るまで、神に従う道を歩まれました。
父なる神に従うことは、幸いの道です。喜びの歩みでしょう。
しかし、人として、
裏切られ、蔑まれるという精神的な苦しみ、
鞭打たれ、十字架にかけられるという肉体的な痛み、
それは、どれほどのことだったでしょうか。
主のご意思であったからといって、
その痛みが軽減されたわけではありません。
その考えるだけでも気が遠くなるような時間を、
人間イエスは、耐えていかれたのです…
聖餐の恵みに与る時、私たちはその痛みを思わなければなりません。
罪なき人に「十字架にかけろ!」と叫んだ私たちの姿を思わねばなりません。
その加害者としての痛みを知らなければ、
十字架の恵みはわからないのです。
そのことを思う時、涙が頬を伝います。
教会の十字架を見上げて、
それ以外の何ものをも必要ではないのだと思いました。
ただ、主イエスの十字架を見上げて歩むこと、
それだけが私の願いであり、キリスト者の希望なのです。