呼吸のように・・・

俳句のエッセー

蕗の薹

盛り土などせずに、境界だけがある昔からの住宅地では、
庭というと、ほとんど同じ植物が植わっていた。

土に生えるものにしてみれば、
地続きならば、無限に蔓延っていくのは道理であろう。

この辺りでは、どの家にも茗荷が生えていたし、
我が家にしかなかった山椒の木が、気付いたら
隣の家にも、後ろの家にも大きくなっていた。

どこかの家にコスモスを植えると、
翌年には、そのあたり一帯、コスモス畑のようになっていた。

このようなことを繰り返して、
庭の植物は、大体同じようなものになっていくようだった。

我が家の後ろの家は、畑を持っていて、
色々な野菜をまめに作っていらした。

一方、我が家は、藪のようになっていて、
せいぜい草を刈っては燃すくらいだった。

その我が家の庭に、ある時、
蕗の薹がいくつも発見された。

出所は、やはり、後ろの家のようで、
大喜びで、母は、後ろの家のご主人にお礼を言ったりしていた。

母が喜んだのは、蕗の薹は食べられるからである。
労せずに食材が手に入ることほど喜ばしいことはないので、
これは、人間の本能のようなものであるらしい。

その日は、早速、食卓に蕗の薹が並んだ。

味噌だったか、天麩羅であったか覚えていないが、
子どもの私には、あの苦さが美味しいとは思えなかった。

母は、どうして食べないのか、しきりに尋ね、
挙句に、自分で食べてしまっていた。

それ以来、しばらく、私は春の味を好まなくなったが、
母が喜ぶので、土筆も蕗の薹も蓬も、よく採ってきては、母に渡した。
食べないけれども採るのは大好きで、採り残すのを嫌ったほどだ。

これも人間の本能かもしれない。

蕗の薹が生えていたところは、
今は、家の下敷きになってしまっている。

春の採りものの楽しみはなくなったが、
食欲だけは増大してしまっている。

これが、大人になるということかも、知れない…と思う。