悔いだけで、謝罪も修復もなされないのは
まだ何もなされていないのと同じである。
また 悔いも修復の努力もない謝罪は
弁解でしかない。
そして 悔いや謝罪なしの形だけの損害賠償では、
人格的信頼関係は修復されないままである。
しかし、仮に
それら三つ全部が揃ったとしても、
もし第四の償罪が行われないなら、
被害者も納得せず、加害者自身の気も晴れない。
〈中略〉
この大いなる主の日を巡る〈さばき=審判〉ストーリーの筋書きに、
予想もしない大転換が起こった。
裁き主が 実に 裁かれるために到来したのである。
義なる審判者が終わりの日の大いなる法廷を先取って、
自分と不義なる人間との立つべき場所を交換したということ、
(Ⅱコリント5.21)
この神の御子による徹底的な立場の交換によってだけ、
裁きが私たちにとって救いとなる。
以上、芳賀力ブログ「Veni Domine」
2019年1月10日より引用。