呼吸のように・・・

俳句のエッセー

軍歌

父は、今思えば声のいい人で、晩年まで音程はしっかりしていた。

歌手になりたかったと聞いたことがあり、軽薄な人間だと思っていたのだが、

実は、音楽大学へ進学するための、特別な訓練を受けていたことを

随分、後になってから知った。

結局、受験しなかったようだし、受験しても合格したかどうかわからないので、

なんともいえないのだが、確かに楽譜を読み、オルガンも弾いていた。

さて、その父が、私の前で軍歌を歌い、母に叱られたことがあった。

その軍歌は、テレビでよく耳にするような

「同期の桜」や「予科練」といったものではなく、

リズミカルで明るい旋律という印象だった。

最近になり、それが「抜刀隊」であることが分かった。

最後の「進むべし」の「べし」が、「べーし」と、

ちょっと特徴的な節回しだったことを覚えていて、

これによって「抜刀隊」と分かった次第である。

「抜刀隊」は、「陸軍分裂行進曲」で知られている。

「陸軍分裂行進曲」が分からない人は、

かつての大戦下、学徒出陣で演奏された曲だと言えばわかるかと思う。

「陸軍分裂行進曲」は、フランス人、シャルル・ルルーによって作曲された。

シャルルは音楽兵で、明治期、日本陸軍音楽隊の指導のため日本へ来ており、

この行進曲を残して、彼はフランスへ帰っていった。

彼の弟子である永井建子が、あの「歩兵の本領」を作曲している。

「抜刀隊」は、「陸軍分裂行進曲」に歌詞を付けたものだと、

ずっとそう思っていた。が、実は軍歌「抜刀隊」が、

「陸軍分裂行進曲」に先行していたと、最近になって初めて知った。

「抜刀隊」と、シャルル・ルルー作曲「扶桑歌」とを併せて、

編曲されたものだったそうだ。

父が歌っていた「べーし」が、先行して陸軍分裂行進曲ができた。

その曲によって出陣した学徒兵の悲劇は、語るに及ばず、

まさか、この行進曲によって出て行った日本軍が、

これほどまでにボロ負けしようとは、シャルルも思わなかっただろう。

父は、志願兵になろうとしていたところで、終戦を迎えた。

父の兄は、海軍に属し、サイパンで戦死した。

真っ白な軍服を着て、それは恐かったと父は話していた。

名前を呼ばれると、ピリッと背筋が伸びたと言っていた。

 サイパンへ赴く前、その兄は父を訪ね、

一緒に喫茶店でホットケーキを食べたそうだ。 

英文法ががっちり頭に入っていた人だったと話していたが、

その兄の名前の入った辞書を、父は最後まで大切にしていた。

今になって、父の悲しみが分かり、残念でならない。

ときどき、父の歌った「抜刀隊」を思い出す。

明るい声で、高らかに歌っていた。

高度成長期と言われたころの話である。