呼吸のように・・・

俳句のエッセー

小さな物語

老いて、病にある方へ
父なる神が共に居て支えてくださいますように…

  『小さな物語』 (2017年1月1日 石川医報)

 今年は8回目の酉年を迎えます。この年になりますと、様々な思い出に耽ることも多いのですが、とりわけ太平洋戦争に従軍して出会った幾つかの場面は、忘れ難いものとなっております。
ニューギニアフィリッピンと転戦しましたが、赴任の途中に乗船が撃沈され日本から5000キロ離れた太平洋上をボートで1週間漂流したのを皮切りに最後はフィリッピンルソン島の山中で餓死寸前のところを終戦で助かるまで、生死の関門が5度ありました。その関門を幸運にも潜りぬけて生還し得ましたのは運がよかったというよりも、そういう定めであったのだと感謝の中に今は受け止めております。

 終戦でマニラ郊外の捕虜収容所の将校棟に入りましたが、そこには80位のテントに、2500人位の将校が起居しておりました。そこで出会った二つのことが、私の人生の大きな転機となりました。

 その1、将校はジュネーブ条約で労働せずともよく、暇をもて余していました。そんな或る日、近くの捕虜の174病院から、耳鼻咽喉科医の後任を探しに来たのです。私はとっさに手を挙げました。学生時代は内科志望でしたが、それよりも何よりも、医師の仕事ができる魅力が大でした。病院で前任の先生から懇切丁寧な指導を、約一か月受けたことが、帰国してから耳鼻咽喉科への道を歩むことになったのです。

 戦後の日本は食糧難で物が無く貧乏でしたが、長い間の戦争が終わり、平和が戻って、人々の心の内に希望を秘めて、その顔は明るかったように思います。昭和29年4月、自宅を改造して念願の医院を開業しました。半年たち患者さんもかなり来院するようになった晩秋のある夜、私は教会の門を叩くべく(小さい時キリスト教系の幼稚園、又日曜学校に通い、神様という言葉が頭の片隅にありました)柿木畠の金沢教会前の暗い通りを、行ったり来たりしていました。
意中の人と結婚し、論文を書き、開業にこぎつけ生計の目途もたったのに、何故か心の底に空虚なところがあったのです。それは人間が根元的に持っている罪の意識からでした。

 その2、やはり捕虜収容所でのことです。
ある時、収容所内を散歩していた折、キリスト教集会と書かれたテントの前で二人のクリスチャン。
一人は東大出の医師、もう一人は慶應の学徒出陣組の方でしたが、神について熱心に語っている場面にでくわしたのです。聴衆は4,5人でしたが、その時聞いたことが私を捉えていて、9年経って教会へと足を向かわせたのでした。

 昭和32年に妻と共に洗礼を受け、今年で60年になりますが、毎日曜日、礼拝を捧げてきました。
「人生の完成とは」という難しい言葉があります。ある日曜日、礼拝の説教の中で「神の大いなる救いの物語の中で、私共一人一人が、自分の小さな物語を生きている」というところがありましたが、私は自分の人生を振り返り、様々なことを思いおこしながら納得したのでした。(金沢2区)


 どうか、この小さな物語の主人公のためにお祈りください。
今、目も見えなくなり、耳も遠く、寂しく過ごしておられます。
「神様の大いなる愛の内にあることを信じて、信仰をもって※」時を過ごすことができますように…
(※これは、この方から教えていただいた信仰の言葉です)