呼吸のように・・・

俳句のエッセー

与えられるもの

寒いと思ったら、雪になりました。

今、屋根瓦の先の色が分かる程度に、うっすらと雪が積もっています。

雪は静かに降り積もっています。

冬になれば雪が降り、春になれば、その雪が融けて花が咲き、

季節は繰り返しています。

その自然を詠むのが俳句です。

毎年、繰り返される景色を生き、

その中での発見を、感動を十七文字に表現します。

繰り返される自然は、しかし、同じものはないと言われてはいますが、

それを、鋭敏な心の襞で感じ取り、異なった感動を詠みあげることは

並大抵のことではありません。

想像で物を言うと、必ず行き詰まります。

必ず類想句となります。

つまり、陳腐ということです。

人の考えることは、それほど違っていないからです。

想像してみてください。

先日のクリスマスに於いて、讃美礼拝の風景を詠んだとしましょう。

しかし、同じ場所で、同じように行われる讃美礼拝で、

違った何を詠むというのでしょうか。

蠟燭ですか。讃美歌ですか。

それらは、誰もが詠むのであり、かつて詠んだものに違いないのです。

そのかつての自分を超えて、作句しなければなりません。

そのために、本を読み、感性を磨き、言葉を磨いて、

新しい十七文字が生み出されるのです。

一度や二度、天真爛漫に詠みあげて評価を得て、

一人前のことを言うものではありません。

質の高い作品は、続けてこそ評価を得るのであり、

その他は、ビギナーズラックといい、誰にでも起こることです。

続けて新しい発見と感動を詠みあげること、

それは、頭で考えるものではありません。

言葉は、徹頭徹尾、与えられるものです。

自然を観察する、そこから与えられるものであって、

頭で想像し、考え出されるものではありません。

まず、目で見て、手に触れて、肌で感じなければならないのです。

教会では、「牧会なくして説教なし」と言いますが、

著名な誰かの言葉を継ぎはぎしたところで、感動は生れません。

そんな無様なことをしでかしてしまうのは、体験がないからです。

病気の人を見舞い、悩んでいる人の話を聞けば、

言葉はいくらでも与えられるものです。

目の前の人を見て、分析せよと言っているのではありません。

分析することほど、無礼で人を傷つける行為はありません。

ただ、目の前の人が自分だと想像するだけでいいのです。

それが、すべてです。

自然を観察し、時には、そのものに成りきることが

新たな視点を発見し、感動を生み出します。

言葉は与えられるもの、

それは、間違いなく、そうなのです。