「立て、行こう。
見よ、わたしを裏切る者が来た。」
ゲッセマネの園において、血の滴るような祈りをされたイエスが、
死ぬばかりに悲しいと言われたイエスが、
その十字架を受け入れた瞬間でした。
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」
「その杯」と言われた十字架を、
主イエスは選び取られた言葉だったと思います。
主は言われます。
「立て、行こう」
それが、人の目には愚かなことであったとしても、
人には不思議に思えることであったとしても、
主が先に立って進まれる業である限り、
私たちは、主の道に従います。
神様のなさることに間違いはありません。
神様に従うとき、神様はすべての責任をお取りになります。
一人ではありません。
主が先だって進まれます。
神の愛の業のために、
「さあ、立て、行こう。」
主がお呼びです。