島村哉哉(さいさい)こと、島村鶴亀(きかく)牧師。
原石鼎に師事された俳人であり、
句集も出版されておられることを知ってより、
親しみを感じています。
その鶴亀牧師の説教も、また、本になっており、
つい手に取ってしまいました。
その中のある章に、
「プロテスタント教会の最大のつとめは、神の言葉を教え、
またこれを宣べ伝えることである。」
いきなり、このように書かれていました。
鶴亀牧師は、
「神の言葉を宣べ伝えることに代わるような良い業はない」
としつつも、聖フランシスの例を引いています。
孫引きで申し訳ありませんが、以下に記します。
「聖フランシスが一人の修道僧を連れて、御言葉を宣べ伝えるために出かけた。
ところが朝から晩まで貧民を助けるのが忙しくて、説教をしなかった。
そこでその修道士が、晩になって『いつになったら説教しますか』と問うた。
聖フランシスは、
『われわれは、一日中説教していたのじゃないかね』と答えた。」
(島村鶴亀 解説 新堀邦司 日本キリスト教団出版局2006.2.6)
信仰のない奉仕は、ただの福祉活動でしかないということを踏まえ、
「牧会なくして説教なし」、この言葉は、
奉仕なくして説教なし、と言い替えることができるでしょう。
私が新しい手帳を買ったら、まず記すマザーテレサの言葉があります。
沈黙の実りは祈り 祈りの実りは信仰
信仰の実りは愛 愛の実りは奉仕
奉仕の実りは平和
信仰があり、愛があって、奉仕がある、という順番です。
神の愛を知り、信仰を得た愛の人は、奉仕を始めます。
それはイエスに倣う神様の業です。
ヨハネ福音書にあるように、
神の言葉は肉となって地上に降ったのではなかったでしょうか。
つまりイエス・キリストです。
イエス様は、愛をもって貧しい人、病の人、虐げられた人たちを
訪ねられたのではなかったでしょうか。
イエス様の行いは、神の言葉だと言いかえることができます。
「われわれは、一日中説教していたのじゃないかね」
その意味において、聖フランシスの言葉は真実です。
神を信じて洗礼を受けた者は、イエス・キリストの弟子です。
各々、自分の十字架を背負い、イエスに従いましょう。
説教だけが宣教ではありません。