呼吸のように・・・

俳句のエッセー

こんなことが書いてありました。

東京神学大学の新しいホームページ。

驚きました。とても魅力的な仕上がりです。

そこで、こんな文章を発見しました。

しかり、しかり、と拝読しました。

 

神学教育とは


「敬虔と学問」という言葉があります。「信仰と理性」「祈りと神学」と言い換えてもいいでしょう。神を畏れ、神を礼拝することがすべての土台です。しかしそれは必ず、神をもっと深く知り、神の恵みをもっと深く味わおうとする絶えざる探求へと至ります。それによって、もっと高らかに神をほめたたえることになります。このようにして、敬虔と学問とは深く結びついているのです。
東京神学大学は大学であるのにまさって神学校なのであって、ここでの学びにおいては、まさしく敬虔と学問の両者が求められます。生きておられる神を喜びたたえることなしに神学を学ぶことは、自分を高慢にするだけのまことに虚しい営みです。神学的な反省なしに教会に仕えようとするなら、たちまち間違え、異端的になることさえあるでしょう。敬虔が養われることと学問が磨かれることとが結びついて初めて、健全な神学教育が行われることになります。

 

はっきり書かれていて、気持ちがいいですね。

私が初めてキリスト教と出会ったのは、高校でした。

そして、初めて、宗教関係の本を買いました。

お小遣いの中からの捻出でしたので、迷いに迷ったのを覚えています。

今、見ると、そうでもないのですが、

当時は、なんと分厚い、難しそうな本だと思いました。

それは、『我、ここに立つ』

ルターの伝記でした。(伝記と言っていいと思うのですが)

 

さて、神学とは何でしょう。

私にはよく分かりませんが、知識を得たいと思うとしたら、それは、

日常の出来事に、どのように判断していくか、

その方向を知るための指針としてではないか、と考えます。

人は、神様に倣って、神様のように生きようとしますが、

一方で罪の存在であり、罪から逃れられないことを知っています。

だからこそ、十字架が必要です。

その人間が、どのように生きていくのか、

どのように神の救いを捉え、使命を捉え、

委ねられた責任を果たしていくのか、それが問題です。

いつも、いつも悩むところです。

おそらく神学を学ぶと、正しい判断ができるようになるのではないか、

そう思うわけです。

という意味でも、机上の学問とは違うと思います。

いや、学問とは「机上のもの」ではないでしょう。

活用されるものを指すと思います。