呼吸のように・・・

俳句のエッセー

ブログのこと

私は、ブログは書きますが、読むことはしません。

読んでいるのは、神父様のエッセーや文学や科学の方のものなどでしょうか。

知的な刺激を受けています。

それ以外のだれかれの日常には、興味がありません。

こちらのブログを持ったのは、自分を鍛える意味もありました。

俳句の季語を使ったエッセーを一年書き、

その後は、自由にエッセーや俳句鑑賞を書いてきました。

自己満足の世界です。

事実、投稿記事数に対し、アクセス数が60%程度でしょうか。

読んでいただいたら嬉しいですが、俳句や自然や、ふと気づいたことなど、

共感していただいたら嬉しいと思うのであり、

私自身や私生活に興味を抱いていただくことは、嬉しくありません。

むしろ不快に思います。正直な感想です。

「雉」の方々に時々読んでいただいて、

ときどきコメントをいただき、お会いしたときに、ちょっと話題になる、

それは楽しいことでした。

あれは、私が初めて句会を持ったとき、初心者の方が三名集いました。

その中のお二人は、半年ほどで、

「『雉』とは合わない」「同人は断ってもいいのか」

などとおっしゃって、辞めて行かれました。

指導の未熟さをおっしゃりたかったのだと思います。

俳人協会の会員になったばかり、「雉」同人としても駆け出しだった私は、

落ち込みもしましたが、句会の先輩方や先生方、結社の先生方に励まされ、

句会を続けることができました。

第二芸術論で知られる俳句は、初心者と熟練の区別がつかないと言われます。

その句会に、数回出席され、たまたま高点句だったこともあって、

有頂天になられたかもしれません。

そのようなことは良くあって、私も調子に乗って俳句を始めた一人です。

もちろん、結社の同人になるための資格や実力も、

彼らにはありませんでした。

結局、その句会は閉じましたが、その方々は私のブログを読んでいらして、

ずっと読んでいらして、この匿名性の高いブログですが、

身近な方々に私のブログだと暴露され、コピーまでされて、

こんなことを言っていると言い広められて、続けることが困難になっています。

匿名性が高いので、時には好きなことを書きます。

それは、FBやTwitterには劣りますが、

それは日々のカタルシスとして用いられている、

そのような性格を持っているのが、ブログでしょう。

その内容を人様に知らせるのは、漏らした愚痴を他人に知らせるようなもので、

良識ある大人の行為ではないと言わざるを得ないのではないでしょうか。

実際、ネットではそのような被害の相談も、検索することができます。

このアクセスの少ない、小さなたわごとは、今、ひどく有名になりました。

私の周辺にだけ、有名になっています。

風評被害だと言われているようです。

が、私も被害者だと言えそうです。

誰が、何のために、このブログを知らしめたのでしょうか。

皆、もっと賢く判断せねばなりません。

表面的な行動しか見えませんが、大切なのは「動機」です。

これは、心理学でいわれていることです。

例えば、表面的ないい子が、ある時、母親を殺します。

なぜと人は問いますが、動機を見れば答えは簡単です。

その「いい子」は、愛情や良心からいい子の行動をとっていたわけではありません。

あったのは、ただ、自分が認められたかっただけでした。

利己的なそのいい子は、自分しか見えていなかったのです。

だから、嫌なことも我慢して行動しますが、

期待した母親からの愛情、ご褒美など与えられねば、全てが憎しみに変わります。

人は、動機を見なければなりません。

「すぐに決めつけてはいけません。

 相手が何をしているかはわかっても、

 なぜしているかはわからないからです」

           『あなたのままで輝いて』PHP研究所刊  片柳弘史  RIE

マザーテレサの言葉です。

私の書いてきたことにも動機があります。

明確な動機があります。

もし機会をあたえて下さるならば、こちらを議論したいと願います。

今、私は、かつてないほど「死」を恐れています。

その「最期」を恐れます。

私にとって恐ろしい死を見たからです。

兄弟姉妹と言われる人たち、あなた方の誰が、

この私の悲しみや痛みに寄り添ってくださったでしょうか。

この怒りや惨めさを理解しようとしてくれたでしょうか。

この言葉で訴えてきたことは、私の魂の叫びです。

私は、決して恥じません。

他人の誰かにではなく、私は、私自身のために、

言葉をつづってきました。

それは、誰の批評からも無縁だと思っています。