呼吸のように・・・

俳句のエッセー

臨済録示衆の章

臨済宗臨済録」示衆の章

  仏に逢うては 仏を殺し

  祖に逢うては 祖を殺し 

  羅漢に逢うては 羅漢を殺し

  父母に逢うては 父母を殺し 

  親眷に逢うては 親眷を殺して

  始めて解脱を得ん

 

修行の行き届かぬ私が、この文言について

何も語ることができないと思います。

ただ、以前、岡本太郎が本に書いていたことを思い出します。

ちょうど「芸術は、爆発だ!」が、流行った頃です。

臨済宗の記念講演か何かで、京都へ出掛けた岡本は、

その高僧が語る内容が、形骸化していると感じたらしい。

「だから、駄目なんだ」

このようなことを心に呟き、岡本は登壇しました。

臨済宗のお坊さんを前にして、

開口一番、

「皆さん、皆さんはこの京都の町を一週間歩き回ったとして、

 仏に出会えると思いますか」

会場は静まり返ったそうです。

「逢うのは己のみ。

 己に逢うては、己を殺せ!」

一瞬、どよめいた会場が、拍手の嵐と化しました。

なるほど、身に沿った解釈に脱帽です。

こうでなければならないでしょう。

 

私たち、キリスト者も、このように考えたいものです。

ゴルゴダの丘へ、イエス・キリストを追いやった民衆は、

その裁判の場において、一斉に叫びました。

「十字架に架けろ! 十字架に架けろ!」

ポンテオ・ピラトは、言います。

「この者に罪は認められない。それでもというのなら、

 この者の血の責任は、私にはない。」

ピラトは、ユダヤ人は妬みから、

エスを極刑に追いやろうとしていると分かっていました。

しかし、民衆の連呼は止まりません。

「十字架に架けろ! 十字架に架けろ!」

ピラトは抑えられず、イエスを十字架刑に処す決定を下しました。

 

私たちは「罪人」。

口先だけで言うのは簡単です。しかし、その意味を

十分に理解しなければなりません。

想像上のイエスではなく、歴史の話ではなく、

あなたの目の前の人を思い、叫んでみる必要があります。

「十字架に架けろ!」

これが、どのような意味を持つのか、考えねばなりません。

冤罪です。明らかな冤罪にもかかわらず、

気に入らないという理由で、殺そうとする、自分自身を見なければなりません。

そして、極刑に処せられても、なお、

「私は、あなたを恨んだりしない。

 分かっている。無知なだけだろう、君たちは。

 神様が君たちを赦しますように…」

このような感じでしょうか。

エスは、こうして息を引き取りました。

この歴史的事実を、我がこととして受け止め、信じ、

洗礼を受けたのなら、このことを深く受けとめねばなりません。

「十字架に架けろ!」

この言葉を語る私たちが、岡本太郎に失笑されないように、

しかと受け止め、深く黙想し、

伝えていかねばならないと思います。