「万事を益として共に働く主」
このように聖書には書かれています。
これは、様々に事が起こり、人は様々に動きますが、
最後には主が御働きになり、良い方向へ導いてくださる、
ということでしょうか。
確かに、正しいでしょうが、
このように書くと、誤解も多いように思えるのも事実。
人には自由意志があります。
その自由意志をどのように使うかが課題で、
悪いようにも、いいようにも使うことができる、
自由とはそのようなものです。
では、何を選べば「良いこと」なのか、
それは、「神様を選ぶこと」「神様の意思を選ぶこと」でしょう。
また、先日の説教では、
「神様の協働者になること」というようなお話でした。
神様は、全地全能の神様ですから、人が神様に何かできるかというと、
何もできません。つまり、
神様は人を必要としていないわけです。
にもかかわらず、
共に祈るように、傍らにいるようにおっしゃいます。
主の祈りしかり、ゲッセマネの祈りしかり、
人は眠りこけてしまうのに、その場へ連れて行かれます。
主は、共に働くことを望んでおられます。
そして、そのことに於いて、
神様と人間は結びついています。
祈らねば、神様と私たちは、何の関係もなくなります。
私たちが祈る前から、神様は、私たちの必要を知っておられます。
ならば、祈らなくてもいいのに、主は祈りを求められます。
祈らなくても、それは、成し遂げられるかもしれません。
しかし、神様と私たちは、その出来事に於いて、何の関係もなくなるでしょう。
神様は、私たちに共にいて欲しいと、
そのことを自由意志で、選び取ってほしいとおっしゃっています。
それは、祈ること。
主の約束を守ること、つまり、神様を愛する事、
それは、自分自身を愛し、同じように他人を愛する事。
愛するとは……行動する事。
神様は、万事を益として共に働いてくださいます。
神様の許で、協働者になることこそが、
私たち人間の為すべき業なのでしょう。