呼吸のように・・・

俳句のエッセー

「筆談」は差別か?

先日、俳人協会全国俳句大会において、拙句が入選いたしました。
小澤 實 選
筆談の文字へ落花のつづきゐし   ちえり

しかし、今日、この句について、身近なところから苦情を受けました。
聴覚障害者を詠んだのではないかとの内容です。
掲句は、まったくの事実の写生ではありません。
実際は、川原での花見会に誘われて参加した、その場でのこと、
私が俳句をしているということで、興味のある方が寄っていらして、
「こんな句を作りました」と披露してくださった、
その句をノートに書き写していたときの景色です。
ちなみに、その句は「雉」ネット俳句で特選を得ています。
中には、中国の方もいらして、その方は日本語は堪能でしたが、漢字で会話もしました。
ですから、正確には「筆記」とするところかもしれませんが、
文字数、その他を考えて、「筆談」といたしました。
「筆談」すなわち、聴覚障碍者の蔑視と、その方は思われたそうで、
大変、傷ついたと言って、私を責め立てて止みません。
そうでしょうか。
「筆談」は、そのような方を傷つけるような、差別的な言葉でしょうか。
むしろ、そのように考えることの方が、よほど差別的ではないでしょうか。
掲句は、地味な作品ですし、選者の目に止まらなかったとしても不思議ではありません。
また、俳人協会俳句大会は大変な激戦で、ほとんどが入選できないのが現実です。
誰も、「人の障害を利用して、名誉を得よう」などとは、考えておりませんし、
そんなことを狙ったとしても、成功するとは考えにくいことです。
公平に選を受けて、小澤先生は、評価してくださったのです。
なかなかいい句ではありませんか。
選者の先生に対しても、恥じるのは失礼。
これは、ほのぼのとした温かさを感じる句であり、
差別とは反対の雰囲気を漂わせていると確信します。
掲句を「差別」と受け取る、その方こそ、自意識の中で、
ご自分を蔑み、同じ境遇の他者をも蔑んでいると言えないでしょうか。
その意識こそが、「差別」というのです。
ハンディがあっても、事実を事実と認めたうえで、
お互い尊重し合い、助け合う社会になりつつあります。
ハンディは、個性であり、誇りを持っていいのです。
私の身内にも、あなたと同じような境遇の者がいます。
よくご存じですのに、
障碍者を差別するのか」と、執拗に騒ぎ立てるその態度は、
まぎれもない暴力ではないかと思いました。
掲句の入選を、私は誇りに思います。
しかも、この句は、バリアフリーに向けての一助となると、
信じます。