呼吸のように・・・

俳句のエッセー

殉教

日曜日は主の日。
礼拝と共に、会報「みち」の発行が発行され、
主の言葉を受け止めました。
「みち」において、神学者ルードルフ・ボーレン神学者の言葉が
紹介されています。伝道者に向けられた言葉です。
「殉教の覚悟をしなさい」
それは、説教を語っている目の前に信徒に対してであり、
殉教の覚悟がなければ、御言葉は届かないとの、姿勢を言っています。
その言葉通り、今日は、井ノ川牧師の生命が滴るような、
御言葉の解き明かしがされました。
力が入っていました。
真理を語るとは、いい加減な気持ちでは無理です。
ボーレン氏の言葉を思い起こした礼拝でした。
正しい者のためなら、あるいは死ねるかもしれません。
家族や親しい友人であれば、命を懸けることもできるかもしれません。
しかし、私たちが罪人であったとき・・・
聖書は、そのように語ります。
神はその独り子を世に遣わし、私たちのためにいけにえとなってくださいました。
この身に置き換えて考えますと、正直に難しいと思います。
誰が、自分の敵と思うような人間に対して、命を捧げることができるでしょう。
このことが難しいと思うなら、このことの痛みを思うなら、
十字架の苦しみと恵みを、神の愛が分かるはずです。
痛みは、他人の苦しみを理解する有効な手段となります。
痛みの重要な意味の一つは、人を成熟させることと言っていいかもしれません。
でなければ、虚しいばかりです。
御言葉を、ただ、聞き、読むだけでなく、
心に書きとどめて生きる姿勢が、求められていると思います。
キリスト者、一人一人に、です。