教会を意味する「エクレシア」とは、呼び集められた者という意味です。
つまり、神さまに呼び集められた者の集まりが、教会ということになります。
一般に、人が集まる場合、共通した目的や趣味や、何か共通点があるわけですが、
教会には、それがありません。
人の考えからすると、全く脈絡もない人たちが集まっているところ、
それが教会です。
不思議な集団と言えます。
つまり、集まっている理由は、ただ一つ、
神さまに呼び集められたということ、それだけです。
ですから、ある意味で結束は難しいかもしれません。
社会的には、全く価値観を異にする人たちがそこにいるわけですから、
破綻したとしても、分からないことではないかもしれません。
しかし、神さまに寄っている限り、破綻はありません。
まったく不思議な話です。
そんな中に居て、ストレスはないのかと問われれば、ないとは言い切れません。
誰も、ただの人間ですから、そういうことはあるわけです。
しかし、呼び集められたのは、主なる神。
そして、主イエスは、その人のためにも十字架にお架かりになったのです。
その相手に向かって、
「あなたは、なぜ、ここにいるのか」とか、
「あなたは、この場にふさわしくない」とは、
誰も言えないのです。
ですが、羊を散らす狼はいないのか、というと、
それは、分かりません。
狼対処の方法は、聖書に書かれていますので、
教会が信仰を以て判断していったらいいのですが、
いないとは言い切れないというのは、事実だと思います。
ただ、それは教会が判断する事であるので、
私たち個人が、他人の信仰をとやかく言うのは、的外れと言ってもいいと思います。
私は牧師でも、長老でも、役員でもありませんから、
これ以上は申せませんが、最も小さい羊の私でも、そう思います。
そもそも、自分がここにいることが、ふさわしくないのではないか、
自分がここに加えられていることが、恵みなのではないか、
そう思ってしかるべきです。
それが見えなくなったとき、信仰の危機かもしれません、と思います。
驚きました。
主を捨てると、すべて失うとは、漠然と理解していましたけれども、
その「すべて」とは、お金でも、家でも、車でも、家族でも、何でもない、
「信仰」だということではないでしょうか。
それは、傲慢であり、無慈悲であり、要するに愛のない姿です。
そうなると、人間の行きつくところは、だいたい分るというものです。
繋がれていた鎖が、ひとつづつ、パチンパチンと外れていって、
気付いたときには、人生の屋台骨が崩れていた、ということになるかもしれません。
信仰が人生の土台。主なる神につながっていること。
これを外しては、魂は死に至るのでしょう。