今日は日曜日。主日礼拝の日です。
日々の生活には、迷うことも多いですし、悩みは尽きません。
どうしたらいいか、いつも選択の連続です。
その時、私たちは、神に祈ります。
さまざまに、自分の言葉で父なる神に訴えるのです。
ですが、父なる神は、私たち人間の父のように、
直ぐにお返事を返してくれたりはしません。
しかも、その答えは、
ご自身をお示しになるだけ、ということが多いのです。
私はどういう者なのか、と。つまり、
愛の神であること。
こんなダメな人間を愛し、救うために、十字架に身代わりとなって死んだのだと、
独り子をいけにえとしたのだと、
そのようにおっしゃるばかりです。
で、私たちは言います。
「そうではなくて、今、目の前にある問題を何とかしてほしいのです」
こんなに礼拝に来ているのに、祈っているのに、
ご褒美をくださいとばかりに、訴え続けるのですが、
はたと気づくのでした。
信仰とは何か…
キリスト者として生きるとは、どういうことか、と。
応えは単純です。
「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」
「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」
これだけです。
あとは、自由なのかもしれないと思います。
創造主ですから、何もかもご存知です。
長所も欠点も、できることできないこと、それは、
主がお創りになったことだから、と思いました。
よく、祈りの中で、主は私に質問されます。
「あなたは何をしたいのか」
こちらが何をしたらいいのか祈っているときに、そのようにお答えになります。
私たちは自由です。
み旨を知る探知機のようなものは、体に内蔵されています。
祈りの中で、それを知ることができるはずです。
具体的には…
牧者にお尋ねください。
ブログでは、とても書ききれない、恵みです。