呼吸のように・・・

俳句のエッセー

過去った時間

日曜日は、主の日。
今日は、イスラエルの民が荒野をさまよった期間、
天からマナを降らせて、民を養ってくださった神様のお話でした。
イスラエルの民は、「つぶやき」が多く、
つまり、不平ばかり言っていたのです。
荒野では、肉鍋が食べられない。肉が食べたい。
エジプトで奴隷だった頃が懐かしい…肉をたらふく食べられたから。
こんな事を言って、つぶやきました。
奴隷だった頃は、朝から晩まで重労働で、自由がありませんでした。
今は自由になりましたが、荒野での自由は、食べるものも満足にありません。
彼らは、「自由」よりも「肉鍋」がいいと、わがままを言うのです。
牧師は言います。
「つぶやきが出るのには、ある決まった法則がある」
つまり、
「後悔です」
愚かな私は、つぶやきは、「食欲」つまり「経済的」な事からかと、
一瞬考えましたが、答えは「後悔」なのだと語られました。
「あの時、こうしていたら」
「この時、こうだったら」
このような事ばかり考えて、過去に生きているところからは、何も生まれません。
過去ばかり見つめて、現在に生きず、未来を見つめないところに、
「つぶやき」が生まれます。
私は、思い出しました。
ある神父様の説教です。
「過去の出来事は変えられません。
けれども、過去の意味は変えられます」
誰も、過去った時を取り戻すことはできません。
過去の出来事を変えることはできません。
しかし、今、後悔しているこの出来事の意味を、
未来において、変えることができます。
これが、神への方向転換。つまり、悔い改めです。
「後悔」と「悔い改め」は、違います。
ただ、過去を悔やんでも何もなりません。
しかし、悔い改めるとは、神様の意思に沿うという事です。
全知全能の神様を信頼し、わが身を委ねるということに他なりません。
神様は、愛です。
その神様を信じて、すべてが最善に結びつくのだと委ね切ること。
そうすると、過去の意味が見えてきます。
それらは、決して無駄ではなく、そのことによって
未来が開かれるのだと、知ることができるでしょう。
神様に向き直り、神様の尺度を得ましょう。
自分の過去が、神様の恵の御業であることが見えてくるに間違いありません。