呼吸のように・・・

俳句のエッセー

合歓の花

教会婦人修養会に行ってきました。
田舎のホテルは自然が豊富で、
それだけでも、出かけた甲斐があったというものです。
青芝が眩しく、夕方には合歓の花が夕日に染まり、
木の上に眠そうに見えました。

講師の堀 一善 先生のお話は、心に響きました。
実生活の中に、主イエスが生きておられる事実をお話しなさったからです。

信仰は、かくあるべきという理想や単なる考え方ではありません。
今、生きておられるイエス・キリストによって救われた、
その希望と喜びに生きる姿です。

もし、あなたの大切なものが、
誰かによって奪われたとしたらどうしますか?
家族を失い、財産を失い、
普通の生活が脅かされるほどの不名誉を負って、
将来の希望もなく、時間を奪われ、健康を失ったとしたら…
しかも、あなたに何の落ち度もなかったとしたら…

赦せないでしょうね。
その赦せない思いに、どれだけ自分が苦しもうとも、
赦すことは、できないと思います。

余りに苦しくて、「主よ」と呼びます。
祈りは、平安へと導くでしょう。
しばらくは、落ち着いていられます。
しかし、また、身体の奥底から呻き声が聞こえてくるのです。

イエス・キリストは、十字架に架けられ、殺されました。
「十字架にかけろ」と言って、死にいたらしめたのは、私です。
しかし神は、イエスの死によって私の罪を贖い、
私を魂の死から救い、命を与えてくださいました。
その死と贖いを思います。その苦しみを思います。

祈りによって続く平安が、普通三時間ほどだったとして、
この場合は、十分持つでしょうか。
いえ、五分持つでしょうか。
三分も持たないかもしれません。

ですから、絶えず祈り続けます。

そして、
  「我らに罪を犯す者を、我らが赦す如く、
          われらの罪をも赦したまえ」

そう、祈ることができるようになるのでしょう。

わたしは、主を、殺した。
しかし、神はそのことを赦し、新しい命を下さった。

「頭で知っていることと、見て知ることとは、違う」
というお話がありました。理解の程度ということでしょうか。

「あぁ、これはこういうことだったんだ」
そういう事実の積み重ねを、主によって成し遂げていただけねばなりません。

信仰も、実生活にそのように生きていないならば、
福音も福音ではなくなるでしょう。