有磯海。
海浜植物園の遊歩道は、松林を通って、海岸へ出る。
風に晒され、傾いだまま伸びている松の何本かは、
更に地に伏すようにして、残雪に覆われていた。
松を襲うのは、風だけではないことがわかる。
冬の間は、閉ざされていた松林にも、
今は潮風がやわらかくて、やはり春だと思う。
そう思うのは、春を知っているからで、
春を知らなければ、春は分からない。
知識がなければ、意味をなさない情報は、いくらもある。
ホトトギスを知らなければ、その鳴き声はただの鳥の声である。
鉦叩のか細い鳴き声は、物音にすぎないだろう。
虫の声だと知らされなければ、一生、鉦叩に出会わずに過ごすかもしれない。
数ではない。量ではない。
私たちは、知識の範囲でものを認識し、
知識の範囲で、ものを考える。
だから、知識を得ていかなければならない。
それは、言葉である。
研ぎ澄まされた感性とは、実は、言葉の数であるかもしれない。
感性を磨きたければ、知識の海原に出ていかなければならないだろう。
春光の海。
若者は、出航の時である。
家を壊し、船を造れ。
所有物を捨てて、命を求めよ。
財産を憎み、生きよ。