浅春の金沢へ、俳句会に行って来ました。
私が初めて俳句らしい俳句を作ったのは、17年も前のこと。
母に誘われて、俳句会に出席したのですが、
その時、褒められた句が、神戸の風見鶏を詠んだものでした。
神戸の異人館、風見鶏の館に、閉館ぎりぎりに駆け込み、
出てきたところへ真っ赤な秋の夕日が目に飛び込んできました。
明日はこの地を離れ、故郷へ帰るという日。
失意に打ちのめされ、その一方で、ようやく家に戻れるという安堵感。
心は複雑でした。
今、出てきた異人館を見上げると、風見鶏が神戸の街を見下ろしていました。
言葉にならない思いは、その時目にした風景に、そのまま焼きついています。
秋夕日港見下ろす風見鶏
私にとって明るいものではなかった、美しいものではなかったのです。
否定的な感情は、決して言葉になることなく、
ただ、強烈に風見鶏を捉えていたにすぎません。
十七文字という短い俳句には、感情など入る余地はありません。
その時の感情が捉えた景色、その切り口が俳句なのかも知れない、
そう思ったりしています。